降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

木曜当事者研究 苦しみについて 

木曜当事者研究
今回のテーマは「苦労」。苦労とは一体何だろうか。

 

苦しみをもつ当事者のいいところは、自分の苦しみに対して妥協のないことだと思う。当たり障りなく、もうこれ以上考えなくていいように、とりあえずいいように言って終わりにしようとしない。

 

苦しみ自体には意味がないと思う。それはただの苦しみだ。しかし苦しみの意義を問うなら、今ある状態、今いる状況から動かざるを得ないということだと思う。ここにはもういれない、いたくない。

 

そのことが人間の強い保守性をこえた動きをもたらすと思う。苦しみがなければ、あるいは苦しみを感じないようにしていれば、人は今ある状態からわざわざリスクを伴って外へと動きたくない。もっといえば、そもそも動けない。

 

快が人を動かす力は実は強くないと思う。押されればすぐ引っ込むような力しか出ない。一見強い快で動いているように思えても、それが強い快として成り立つ背景にその人の苦しみがある。

 

苦しみはある程度まで無解決のまま抑圧できるし、誰もがそうするけれど、それがある限度を越えた時、向き合わざるを得なくなる。場当たり的に向き合うことでことでもなお解決しない苦しみに対しては、自分のあり方を根本的に変えることが必要になってくる。

 

苦しみをどう緩和できるか、マシにできるかばかり考えていた。だが今日葛藤をひきおこされていて、その時にふと、苦しみは今まで使ったことのない、自覚しなかった別の力を湧かしているのだと気づいた。

 

強い葛藤を引き起こされた人がそれまで言えなかった本音を言ってしまうように、苦しみには、いびつなまま抑圧されて、統制されていたせめぎ合いをもう放っておけない状態にする力を湧かす。

 

今まで「力が湧いている」とは気づかなかった。行き場のない気持ちが現れただけだと。瞬間的に声をあげたくなるようなエネルギー、体を身じろぎせざるを得ないエネルギーがそもそも浮かばない状態にしたいと思っていた。

 

だが違うのだとわかった。むしろこの上がってくるエネルギーが古い自分を更新していく力そのものであり、この行き場のなさこそ、今の膠着した状況を壊していく動きそのものなのだと。この力も使っていけばいい。力の流れは言っている。今までのようではないように動けと。