降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

佐伯胖さんのお話し会

日曜日にあった佐伯胖さんの話しの会。

 

【満員札止め☆】しがらみを解く場と学びのデザイン

 

 

子どもを「人間としてみる」ということ: 子どもとともにある保育の原点

子どもを「人間としてみる」ということ: 子どもとともにある保育の原点

 

 

 

「学び」の構造

「学び」の構造

 

 

佐伯さんは認知心理学の人。以前、5ヶ月ぐらい通っていた実習講座の講師のなかで一番骨太な人という印象だった。人間の環境への適応性の高さが、盲目的模倣によるところがあるという示唆など、他の人とはちょっと違っていた。

 

佐伯さんは、会場からの問いに対して、そもそものところから応答する。「こうするためにどうしたらいいか?」などと質問があっても、そのまま「どうしたら」の部分に答えるのではなくて、そもそも「こうするため」と無批判に前提しているそこはどうなのかと問いをぶつける。

 

講演も終わりを迎えようとしたときに会場から出た最後の質問は「自分が気づけないことをわかるためにはどうしたらいいですか?」といった感じだったと思う。

 

聞いた時、批判的な気持ちが湧いた。今の自分がもつ前提を問うことなく、うまいやり方を身につければいいのだという考えでいるんじゃないかと思った。ひがんだ構えになっていた。

 

だがその質問は、今まで佐伯さんの話しを受け取り、揺り動かされ、もっていた既知の方位を失った、そのままの場所から出た質問だったのだろう。どうしたらいいかわからない。誠実な受け取りがあったからこそ、いま足場を失った場所にいる。

 

それまでわかっていたことがわからなくなること、持っていたパラダイムが機能しなくなること、どことも知れないところに投げ出されること。これが対話がおこったということなのだと思う。

 

対話というのは寛容に相手の話しを受け取り、今の自分の延長として取り入れることなどではなくて、相手にふれ、その現実との遭遇するによって、自分自体が変えられてしまう出来事のことをいうと思う。既知のものが既知のもののままで続くところで対話はおこっていない。

 

この質問に対して、佐伯さんは自分というものもまた未知のものとなるのだとこたえた。自意識は「私」という一人称からはじまる。自分が知っている自分が「私」だ。しかしその既知の「私」のなかに二人称である「あなた」、つまり他者がいる。一人称の「私」であったものはやがて二人称である「あなた」と呼ばれることが妥当なのだと知っていく。

 

質問者が「自分が気づけないことをわかるためにはどうしたらいいですか」というとき、質問者は既に自分がわからなくなっており、その不安と揺れのただなかにいる。

 

だがそれが当たり前なのだ。佐伯さんの応答はここでも「どうしたら」に答えていない。気づけないこと、未知だということ。そのままでいい。

 

一人称の「私」が二人称の「あなた」になっていくこと。これはこの質問者のこの問いがなければ、言葉として今回出てこなかっただろう。ここでおこったことは、人と人、自然と自然の出会いだと思う。

 

この出会いを目の前にするとき、既知のものとしての自分が、既知の方法を使い、状況を操作して得ようとすること、あるいは得たと錯覚することなどはもう悪い冗談でしかない。