左京区界隈で配られているフリーぺーパーに寄稿しているのですが、それをブログにも転載することにしました。結局どこに書いても同じことしか書いていませんが。
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秋風の吹くころになり,自給の畑も冬の準備に忙しくなっています。
自給という言葉は僕にとっては借り物です。自給とは何であるのか。
僕はこの言葉をいつも身近において、ことあるごとに眺め、この言葉がもつ広い裾野のどこかを無いものにすることなく、その核心を言い表すことができないだろうかと考えています。
僕が考える「自給」のひとつの重要な側面は、食べることや農という限定的な分野にとどまらず、あらゆることを含めたこのまるごとの世界のなかで、人がその人自身として生き残っていくことです。
世界に支配されてしまうのではなく、世界をしたたかに自分のほうに引きつける。自分の暮らしを規定する暮らしの外枠に自分で働きかけ、カスタマイズし,それをデザインする。
自給的なあり方であることは,別の言葉で言えば自分を取り戻していくことです。自分を元気にしていく軸を自分で探り、手に入れていく。色々なことができるようになって初めて元気になるのではなく、とりかかったときに既に元気がやってきていることを選んでいく。それが自給的なあり方です。
自給とはこの世界で生きていくときに用いるサバイバル術ですから、元気を減らすような考えかた、取り組み方は既に自給的ではありません。
自給するとは、考え方を含め、フットワークを止めない工夫、得たエネルギーを次につなげ,循環させていく工夫を変わり続ける状況のなかで絶えず探り見つけていくことです。
失敗や試行錯誤しながらも、基本的には喜び楽しみながらいく工夫。リハビリ、遊び、仕事が同時にある時間をつくっていくことなのです。
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もし、間違えないようにしなきゃ、ちゃんとやらなきゃ、失敗してはいけないんだ….というような気持ちで練習している結果、上達や演奏の質が妨げられているのだとしたら。それは、どんなに真面目に頑張っているつもりでも実際には『サボり』なんです。(講義より bot)
— Basil Kritzer (@BasilKritzer) 2015, 9月 7