降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

話し 金沢へ

11年前に行っていた自由学校の詩の講座で一緒だった金沢の友人の家に。兼六園に行ったり、21世紀美術館に連れて行ってもらったりしながらぽつぽつ話す。

 

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転機にある人は妥協がない。身体的な飢えがあってさらにさらに確かめようとする。一方で僕もまたいつも飢えている。だからそこで求める話しができる。

 

 

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欲しいものを得ることは,奪うことだと思う。それでしか先に進めない。どのように体裁を整え、暴力性に配慮したところでそれが一つの暴力であることには変わりがない。

 

 

相手の体が奪いにきている。そのことが場の磁場をつくる。そこで初めてこちらにも自由が生まれる。自分の体にへばりついた日常の役割をはぎとり解放されるためにその磁場が必要だ。

 

 

自分が先に進むのには、生身の体が必要なのだ。生身の苦しみ、その打ち震え。その求めはそれ自体としてどこまでもろくでもない。腑分けしたさきのものが相手にも必要。理由はそれだけしかない。

 

 

だが暴力性を覆い隠す欺瞞は、結局は先に進む力を奪うだけでなく共感を奪うだろう。乖離させ、別種のよりたちの悪い欺瞞に変換すれば,倍化された抑圧が周りに敷かれるだろう。選びながら引き受けない。ただそれをやめるだけなのだ。

 

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