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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

冊子の感想

「生き残り 回復するために」の冊子を買ってもらった人にあう機会があって、「生き延びるというのに、実感をもちました」と言われる。そうか、「生き延びる」というほうが普通の言葉なんかなあと思う。

 

自分が生き延びるという言葉を使わずに、なぜ生き残りにしたのかと考えると、「延びる」ほうは「残る」に比べて、状況になんとなく受動的にあわせていても、前より自分がやられていても「生き延びる」とは言えそうだと感じたからだと思う。

 

全く個人的な感覚であるけれど、「残る」ほうが意思を感じる。磨り減ってしまわず、ガタガタしていても、少々いびつでもそのまま残って、勢いを溜めている。必要な力を集中させている感じがする。

 

あとは、「人格というものの成長はない」というところに反応をもらう。人格は成長しない。人格というものは実態としてはない。「わたし」があるのではなくて、ただ場所があって、そこに混在しているものがある。統合が失調できるのだから、実態としてはもともと統合があったわけではなくて、それぞれのものがあるだけだ。

 

そして成長。変化ではなく、なぜ成長なのか。
成長には、あらかじめ期待された方向性の存在がある。期待されたほうに変化するのが成長だけれど、誰の期待だろうか。どこの権威に従えばいいのだろうか。誰かが用意する鏡に適合してそこにうつろうとすることには、そもそも弊害がある。

 

生きていく上での行き詰まりがあるとする。自分が生きていくうえで、必要な分だけ、詰まりをとっていく。それだけだと思う。それは「成長」ではない。ある問題を乗り越えるのに、あらゆるアプローチを使えばいいと思うけれど、「成長」する必然性はどこにもない。必要な分の詰まりがとれればそれでいい。

 

営業向きでない人が、「成長」して営業向きになる。そういう変化が起こる場合もあるかもしれない。が、そのときにイメージされている「成長」というのを離れて冷静にみたら、ちょっとファンタジックだとは感じないだろうか。錬金術が信じられた時代が終わっても、まだまだ人は魔法が好きで、魔法で好きな姿に変身すると思っている。

 

ある場所に、あるものはある。ないものはない。もともとある可能性が出てくる場合はある。しかし、ないものはやっぱりない。「成長」したらできると考えるとき、イメージが限定されている。よって、アプローチも限定されている。そのことのほうが問題だ。

 

ないものはない。すでにあるものを自由に使うことで状況を乗り越えていくことと「成長志向」は逆方向なのであって、「人格の成長」は考え方の詰まりの一つだと思う。

 

あるところの詰まりが取り除かれれば、そこに流れるものが生まれる。循環が生まれる。「わたし」の「成長」ではなく、この場所に流れが生まれるように、循環がおこっていくようにと意識をシフトする。詰まりをただとっていけばいい。好きな姿に変身しないけれど、状況はましになっていく。力がもどってきてくれる。