降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

看取り看取られ計画

自分の見知った人たちのなかで看取り、看取られる関係になれればと思っている。それが可能となるために、高齢者のケアができる人を周りに増やしたい。既にケアマネなり、介護福祉士なりになっている人、これからそういうものになる人たちと知り合う。自分もなりつつ。

 

この指とまれで、看取り看取られ計画に賛同する人たちの母集団ができたら、自律的な少人数のグループになり、計画が実行できるための場所なり体制などをそれぞれで整えていく。母集団は、少人数のグループで人が減ったり、その他問題が出てきたときにせっかくそれまで作ってきた計画がゼロにならないために存在する。

 

以前のエントリーでも少し言及したけれど、ナリワイとして成り立たせたいので、グループは教育も行う。高齢者との関わりにおける技術を高める。というところを名目に、役者やダンサーの人にワークをしてもらう場にしたい。いつも問題に思っているのは、役者やダンサーの人が全然関係ないバイトしなければいけないような状況で、それは非常にもったいないと思っている。せっかく人を育てる力があるのにと。

 

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しかし、演劇、ダンスを名目にすると、それで来る人が限定される。岡山の老いと演劇のワークショップに行ったときに、老い、認知症へのケアという次元において演劇的アプローチが相性がよいことを知った。ワークショップにはリピーターがいて、前回参加して楽しかったからもう一度来たという方がいた。

 

老いが関わっているので、演技の高度さや反射神経などあまりハードルの高いことは双方に要求されない。ほどよく素人が演劇に関われる。もし演劇のワークショップという名目なら、演技がいかにできるか、できないかに場の意識が集中してしまい、場はむしろ解放的にならないだろう。老いというテーマが、素人に演劇に関わる必然性と程よさを提供する。

 

将来いい老人ホームに入れそうでなくても、自分たちで健康で文化的で世界を開いていける場を確保する。今日性的マイノリティの話しをしていたけれど、つまるところ、どのようなマイノリティであっても自分たちで自分たちの尊厳を守る場所をひとつつくり出す必要があると思う。健康で文化的に世界を開いて生き残っていくのであれば。

 

ナリワイ、自営業にする意味は、人の組織を介してではなく、世界に自分が直接働きかけられるというところにある。直接働きかけ、この自分が人なり物なりとの関係を取り結んでいくと、自分が生きるに適した生態系が自然と育ちやすい。

 

週5日正社員として働くというようなかたちではなく生きるとき、重要なのは一つは無駄なく生きることだと思う。将来老人ホームに入るためにお金を貯めるというのではなく、自分らがそこをケアする。学ぶ必要はあるが身に付ける技術は賃労働以外の暮らしでも使えるものにする。仲間を増やす必要があるが、ナリワイとして老人ケアの技術を教えるというかたちを続けていくことでも増やせる。ナリワイをするなかで、元の仲間たちとの人間関係も育っていく。