降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

クィア映画祭へ 無性愛者のドキュメンタリー(A)sexual

お隣の方から絵の展覧会のお誘いを受けていた。

三条のみやこめっせという場所にむかう。

 

お隣さんは現在88歳で20年前から絵を始められたそう。先生も88歳。お仲間も20人から10人に減りながらも年に1度の展覧会に向けて絵を描いている。どこかへすぐ出かけたりできないので、風景画も写真を見ながら描くそうだ。

 

ぐるっと一回り絵を紹介してくれて、おかしや下の階のカフェの飲み物券をくれた。ゆっくりしていたが、行く予定の大阪の映画祭の時間を調べるとぎりぎりだったので、家に返らず近くの駅に自転車をとめて阪急豊中駅に向かう。

 

今年の関西クィア映画祭が行われている。

今年9年目になるクィア映画祭は、「クィア」をキーワードに、「性」とそれに関わる「暮らし・生き方」をテーマにした 映像作品を集めて上映している。

 

Wikipediaによるとクィアとは、英語圏の言葉「Queer」のカタカナ表記であり、元々は「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉であったが、現在では、セクシュアル・マイノリティ(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルトランスセクシュアルトランスジェンダーなど)の人々全てを包括する言葉として一部では用いられているそうだ。

 

クィア映画祭では、メジャーからマイナーまで、幅広く様々な傾向のプログラムを用意しているのが特徴で、同性愛をテーマにした作品に留まらず、トランスジェンダーバイセクシュアル性分化疾患(インターセックス)などを扱った映画を日本で最も多く上映してきた映画祭でもある、とのこと。

 

今日から3日間に渡って9つのプログラムがあり、今日しか行けなかったのだが、今日は無性愛者に関するドキュメンタリー映画が面白かった。無性愛は、アセクシャル、エイセクシャルなどよばれるため、タイトルは、(A)sexual。

 

無性愛者は、色々バリエーションもあるようだが、基本的には他人に対して性的衝動を持たない。無性愛者の若者が自らネットでサイトをたちあげ、団体をつくるまで、無性愛者の人たちはお互いの存在を確認することもできない状況だったようだ。単純に他人への性的欲求がないだけなのだが、何らかの心の病だと思われたり、周囲からの理解を得難く、あからさまな差別言動にさらされることもあるようだ。時には、同じく性的マイノリティであるLGBTレズビアン・ゲイ・バイセクシュアルトランスジェンダー)の人たちにすら理解されないようだ。

親密な関係をもつパートナーは求めるが、性的接触は好まないため、そこに齟齬が生じたりする。セックスはしないが特別に親密な関係でいたいというのは、相手の求めもあるので、なかなか成り立つのが難しいようだ。無性愛は、アスペルガー症候群との相関性が少しあるかもしれないと見られてもいる。

 

面白かった。自分の場合を考えてみたが、自分は異性愛だけれど、発達障害的なところがあるので、濃厚な感情的愛着をもたない。好意的に感じ、友人のように付き合うが、別れるときも感情的な痛みがほぼない。他人になったことがないので比較できないけれど。相手にとっては、淡白をこえて、冷淡と思われるだろうが、これがどうしようもない。気質、体質であって、障害というなら障害なのだ。万人に理解してもらおうと思わないけれど、別に迷惑をかけたいわけではない。相手がそういう強い感情的一体感が必要な人なら、成り立たないことをはじめから言うとかぐらいができることだろうか。

 

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普通というのがないと言ったりするように、個人的には正常というのもないと思う。多数というのはあるかもしれないが。どこか人と違うとか障害があるといっても、別に異次元の物質から成り立っているわけでなくて、普通の自然のものからできていて、なおそうなんだから。そこにもともとあった可能性がそのまま反映しているだけだ。むしろ、高度に同じものをつくろうとする生きものの傾向自体がそもそも無理やりなのである、と思っている。

 

映画をみた後のアンケートにクィアとは何であると思うかという項目があった。グラデーションかなと思ってそう書いた。グラデーションのそこここだと思う。無性愛があるのだから、性の本質なんて恣意的な前提をつけない限りないと思う。性とは何か、人間とは何かとかいう問いは、つまるところでは「別に何でもない」「そこにあるものがなるようになっているだけ」が答えになるだろうと予測している。

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