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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

揺り動かすリアリティ 状況を設定すること

人は支持的環境のもとで肯定的な変化をおこす。恐れを与えるならば生きものは保守性が優先になり、ある状態に固着化する。恐れ、特に幼児期に受けた恐れは深く内在化する。それらにもう一度アクセスすることは、特殊な状況を設定することによって可能となる。状況を設定して事をおこすこと。これを僕は演劇ととらえている。

カウンセリングルームにおいて、カウンセラーという「役割」、クライアントという「役割」が設定されている。この状況設定のなかで、動かせる内的なリアリティがある。状況を設定しているので、これも演劇だととらえる。だから演劇と演劇でないものに本質的な差はないと思っている。誰もがある状況設定のもとに、それに応じたリアリティを経験する。

 

陸奥賢さんのツイートで、狐憑きを落とすとき、狐憑きの当事者、お祓いする人、そして狐憑きの状態を演技する人の三者を用意して、当事者に直接お祓いをするのではなくて、その演技する人に対してお祓いをして追い出すという紹介があった。それを見ていた当事者の狐が落ちる。

憑物落としは呪術師と憑坐(よりまし)の二人組で行う。錯乱した人がいたら、まずそのひとの「狐」を憑坐に移す。憑坐が「我は狐なり」と宣言して錯乱者以上に暴れる。それを呪術師が「狐よ!去れ!」と祓う。憑坐が「ぐわあ!」なんて演技して、それを錯乱者が見て「狐が去った」と認識させて落とす。 

http://twitter.com/mutsukyoukai/status/508781571415879680

 

演劇によるカタルシス。そうよばれているものが何であって、どこまで研究されて明らかにされているのか気になる。

 

無念の弔い、お祓いなどを伝統芸能や行事として日常に行っていたことは、人に蓄積されていく無念をそのたびに弔い、なだめていたということなのだろうと思う。それらと離れるなら、代替物が必要になる。意識して設定してやらないと、身体は勝手に弔いをやりだすだろうと思う。

 

独断専行で、一見旧弊を破壊するように振る舞うリーダー、嫌韓、嫌中など隣の人の人格をとことんまで貶める行為の底に、自身の行き場のなさ、存在として辱められたこと、辱められていることへの復讐があると思う。復讐は自身への弔いだ。

 

今多くの場所で必要なのは、たぶん弔いとしての祭りだと思う。(悪い意味のアクティングアウトとしてはもうすでにおこっているが・・。)その行き場のなさを弔う祭り。どのようにその祭りがつくられるのか。

 

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ただ演劇をみせれば、それだけでなだめられるか、と想像すると、それだけでは足りないような気がする。自身に食い込んでいるリアリティを動かすには、そのリアリティに相応した弔いが必要だと思う。演劇、状況を設定することによってそのリアリティにアクセスする。

 

朗読劇と普通の演劇の違いは、一つは守りの大きさだということを聞いた。演劇のほうが、深く揺り動かされるため、副作用的なものが出る場合がある、と。逆に考えれば、自身により深く根付いたリアリティを弔うためには、演劇のほうが有効だということだろう。危険は、ここでは体験できるリアリティの深度でもある。

 

柳美里さんの自伝『水辺のゆりかご』をみたけれど、激しいその生き方は、そうでなければ弔い得ないものを彼女が持っていたということなのだと思う。わざわざ役者にならなければ始まらないということではなく、自分自身に根付き、生を圧迫してくる呪い、憑き物を落とすに見合う、生へ対峙が必要なのだろう。

 

回復は支持的環境によって促進される。とりあえずそれをつくることを考えようと思っている。でも、回復が進んでいった最後の最後は、大きく突き放されることによって完了するような気がしている。たぶん。

 

読書案内No.26 柳美里/水辺のゆりかご 包み隠さず書くのは勇気なのか、それとも・・・? | 

 

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