降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

死としての学び

人はどのように変わりうるのか。自分はどのように変わりうるのか。

 

それをずっと考えてきた。20歳前とか、最初は変わることは「成長」することだととらえていた。だがあるべき方向性があるみたいな前提を含むのでその言葉を使うのはやめた。あるべき方向性を暗黙に前提することは変化を停滞させる。

 

変化がスムーズにすすむところは、フラットな場だ。治療の場でも人は変わる。しかし、治療者とクライアントとか、治るとか治らないとか、そういう序列やあるべき価値観が持ち込まれるので、弊害がある。

 

そもそも誰しもが自分は普通でおかしくないと思いたがっているのに、治療受けるとか、自分が普通じゃないとか、不十分だとか認めるような場にいかないし、あんまり受け入れない。ひっかかりがあると何かやっても無理やりになってしまう。

 

逆に「自分は変わらなければいけない存在だ」と意気込むのは、一見謙虚さや向上心にあふれているようにみえて、実際のところその構えが変化の邪魔をする。

 

そんなこと気にもしていない状態のほうがするっと展開するし、「自分はこう変わった!」とか特に自負しないので、そのことに変に自信をもってこだわり、後の停滞を招くようなことにもなりにくい。たちがいい。心理カウンセリングから演劇的手法やエンカウンターグループに移行していった人などは、こういうフラットさを重要視していると思う。

 

次に回復という言葉をよく使うようになった。怪我したのが元に戻る回復のような、マイナスがゼロに戻る回復ではなく、誰もが生きている限りずっと回復し続ける。あるいは回復の方向へ向かおうとする。「成長」し続けるのではなく、回復し続ける。この言い方のほうが実態に対して妥当だと思うようになった。

 

回復は回復でまあいいし、この言葉でこそ含意できるものがあるのだけれど、まあこれも今は回復していないというのを認めなければいけないような印象を与えるところもあり、受け入れがたい人もいるだろう。これは変化をある特定の側面からいいあらわしたものだ。

 

最近気づいてきたのは、「心理的問題を抱えている人」というものの変化と、特にそういう問題は顕在化してない(と思っている)人が何かに出会い自分が変えられるということとは、べつだん異なるものではないということ。

 

これは学びだ。学びとは、それに出会う前と出会った後で何かが変わっていること。データとして同じ自分にただ蓄積されるのではなく、いわばパソコンのOS自体(が自分として、それ)が大なり小なり変わってしまうようなものが学びとよべる。

 

学びとは、更新されるということだ。古いものが終わり、ただ更新されていく。終わりがない。身につけたやり方、成り得た自分はその瞬間から古くなっていく。

 

人はOSのようなもので、あることができるようになっても、ある自分になっても、次の状況に対してはそれは通じにくくなる。潜在的に常に更新される必要がある。だが生きものは何が何でも死なないように動機づけられており、更新という危険性を冒すのは基本的に苦手だ。体感される水準で危機や苦しみが顕在化しない限り、同じあり方に留まろうとする。生きものは更新と留まりという相反するせめぎあいのなかにある。実のところ、どちらかというと留まりの動機のほうが強いだろう。

 

生きものとしては留まりの動機のほうが強いのに、逆であることが素晴らしいと自意識は思いたいし、信じたい。宇宙に行けるようになったり、「発展」したりする新しさそのもの、能動性そのものになることに憧れ高揚する。自分が生の主人公でありたい。その高揚を動機にして自分を動かそうとする。

 

だが、そこには無理がある。きらびやかなものを生み、自分がそんな存在だと錯覚する一方で、そこに置いて行かれた惨めなものが生まれる。そこを認めなければ、世界は「やさしく」ならない。強迫的に素敵なものになろうとすることの反作用。限られた世界で光を集中させるためには、暗いところからより光の成分を奪わなければならない。
そして何より、肯定的なものを設定し、それになろうとするその強迫自体が、変化を阻害するのだ。継続的な変化、自律性が動き出すのは、強迫がとれたところだ。矛盾するようだが、変わるためには、変わらないことを受け入れることが前提になる。

 

生きものは圧倒的な保守性、留まりのなかにある。生きものとは、置いて行かれ、取り残されて、しかし死にきれないものである。それ否定し、高揚しようとすることは、より一層停滞を生む。しかし、自分が生ではなく、死であることを認めた時、逆に死としての自分と世界を流れていく生が感じられる。千と千尋の神隠しの歌にあるように。
”粉々に砕かれた鏡のうえにも新しい景色は映される”

 

新しい景色は所有できるものではない。そもそも鏡に映ったものは所有したものではない。自意識自体が生なのだということを諦めたときに、生は逆に与えられる。

 

学びというのは、それまでのものの死なのだ。一貫した主体はなく、それまで主体だと思っていた自意識自体が更新されたとき、次に生まれた自意識は前のものと断絶している。だから世界は新しく体験される。自分という連続性は概念上、空想上にしかない。
学び、生きものなのに死のうとするというのは、倒錯的でもあるけれども、死して更新していくという、生きものという留まりに対する反逆が人の奥底の層の動機としてある。

自律空間としての文化 「自由意志」はどこにあるのか

昨日は本町エスコーラで山口純さんによる、バンクーバーで行われたplacemaking weekという場所づくりに関わる様々な立場の方が研究を発表したり街中でユニークな企画を行う10日間の催しの参加報告を聞きにいく。以前も一回されていたのだけれど、用事があって行けなかったのでお願いしてもう一回やってもらった。


かたちやスローガンだけでない実践的な取り組みが興味深かった。ホームレスの深刻な問題があるなかでそこに向き合わずにplacemakingなどあるものか、自分は参加しない、と企画自体を批判している人も紹介されていたのが健康だと思った。

 

先住民の割合は人口の1割以下なのだが、ホームレスのうち先住民の割合は5割だったか、多くを占める。土地、文化、自律性を破壊され奪われた人たちがアルコールや麻薬の問題を抱えるのはアメリカの先住民と同じだと思った。日本も先住民に対して、同じことをしていて、貧困は今も世代的に再生産されている。※1

 

文化の自律性は、個人の自律性を支え、エンパワーするのだろうと思う。文化の重要性は、その文化自体の価値ということもあるだろうけれども、個人をケアし、自律性をエンパワーする場の整いとしての一貫性にあるのではないかと思う。個人の自らの内側にある動機を展開させ続けていくことが生きることの充実をつくるのであり、どのような享楽を「与え」ようとも、動機を展開させていく環境を奪うのならば、全く人を疎外していると思う。

 

日々の人との関わり方、モノとの関わり方、仕事との関わり方などが副次的にその人が依る価値観や感覚のベースを用意する。それらはほぼ無意識にできあがっていくといっていいだろうと思う。人の「自由意志」というものは過剰にその中立性をうたわれていると思うけれど、上記のことを踏まえるならば、実際のところどれほどそのようなものがあるのか疑問に思う。むしろ「自分で選んだんだろう?」という自己責任に帰するために「自由意志」というものが高い価値をもつものとして称揚されているのではないかとさえ思う。

 

「自由意志」は自分たちがつくった自律的な空間ではじめて生まれるのではないだろうか? 自律的な空間においてはじめて自分に染み込ませていた、身体化した他者の様式から抜け出ていく契機をもつのではないだろうか? 孤立した個が「自由意志」を回復していけるだろうか?

 

精神的に孤立したものはゆだねることができない。変化は、ゆだねるということによっておこる。変化とはそれまでの自分の様式の死であり、その死の恐怖を相殺するのが自分以外のものとの関係性だ。個がそれ自体で中立的な動機や自由意志をもつというのは神話だ。その神話の信仰は、自分以外の他者に対しても抑圧を与えるだろう。

 

※1中村康利 現代アイヌ民族の貧困
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/…/2…/39608/1/JESW14_002.pdf

精神のエサ場 Morning Zine Circleにいってきた

カフェパランのモーニングジンサークルに参加。ジンはZine。magazineのzine。流通などを通さない自主制作の冊子。

 

http://rakuhoku-kyoto.tumblr.com/post/151729718477/カフェパラン

rakuhoku-kyoto.tumblr.com

 

ジンを出すのは20代、30代が多いということで、40代以後はどうなっているんですかと聞くとジンフェスの運営側になったりして、この媒体を通したやりとりを支えるほうになる傾向があるとか。ただ日本ではそういう環境はまだあまりないそうだ。

 

商業主義を介さないジンのあり方はとても自給的だなと思う。

 

世界と出会い、やりとりしていくなかで、世界との関係性や自己のあり方が変容していく。自給の趣旨は、環境と自分に必要な変容をおこし続けていくことともいえるかもしれない。

 

自給農法の考案者糸川勉さんは「動物は自分のエサ場をもっている。自分のエサ場をつくるのが自給」といっていた。体を維持するものを自分で調達できるようにする。一見面倒にみえても、依存を廃していくことが自分で自分をエンパワメントする基盤を作っていく。

 

公園では営利活動が基本できないから、手づくり市などはお寺など私有の場でよく行われている。やりたいことに必要な自由というのは、自律的な空間で得ることができる。全てを得る必要はないが、自分が進んでいくのに必要な裁量権を自分に取り戻すこと、そして自分のエンパワメントに責任をもつ主体となることが重要だ。

 

何から何まで得る必要はない。必要なことが見えれば、それを最低限展開させていくために環境に働きかけ、調整する。これを繰り返す。

 

ジンのクオリティは本当にそれぞれ。「本というものは読みやすいようにこうでなければいけない」とか、ない。自由でいられるのは、不特定多数を前提にしていないからだ。不特定多数に対する普遍性の追求は、自給においてさしたる意味をもたない。この自分に必要なものが満たせるかどうかが問題。対象と規模によって、正しさも変わり、自由も変わる。

 

さて、今の自分に不足しているのは、いわば精神のエサ場だ。自分にプロセスをおこしていくために、必要な情報、必要な体験、必要な関係性がある。これは形を変えながらもいつまでも必要だ。

 

どこかに行くばかりでは不十分。人の企画は、つまるところはその人が進んでいくための企画であって、質的にも量的にも自分にジャストフィットというわけにはいかない。

 

珍しいもの、自分の力では作れないものはもらえばいいが、基本的に必要なものは自分でエサ場を大体つくれるという自律性があったうえで、交換したりとか、コラボしたりとかいうことも豊かに派生してくる。

 

畑は土があって、種があって、栽培を繰り返すということではわかりやすいけれど、精神のエサ場はかたちが定まってないから場所も時間も媒体もデザインもゼロから考える必要がある。が、やはりこれは自分が責任をもつべきところで、放っておいたら自分が弱っていく。


そういうところで、zineを支える側にまわった40代以降の人たちは、単に身をひいたり、援助のための援助者になったんじゃなくて、自分の精神に栄養をくれる面白い場や人との出会いをつくりだすためにやっているんじゃないかと思った。20代、30代の、点と点で書いたものを渡すというのも出会いの方法だが、そもそもの場をつくるほうがよっぽど凝縮した自分のあり方を世界に対して提示できるし、関われる人も増える。一本釣りに対して、地引き網漁のような効率性だ。

自分をふりかえり、精神のエサ場をつくるということが必要だなと自覚する。

 

しかし「死ぬほど退屈」など言われるけれど、必要なものが得られてないと本当に死んでいくんだろうなと思う。pha さんも退屈な日常にはならないと確信できてから仕事を辞めたと書いていたと記憶しているし。

死んでいること

からだとことばのレッスン、二泊三日の合宿に参加する。

 

10/8-9三浦海岸WS合宿 - ningen-engeki ページ!


竹内レッスンは、竹内敏晴本人も書籍等で言及しなかったけれど、野口体操をベースといっていいほど取り入れたうえで出来ているものだったらしい。色々あるようだ。
先日の本町エスコーラでの対話の場の経験後は、考えるとき焦点をあてるところが変わってきている。(適切な言葉が見つかればそちらを使うがとりあえず)リアルな感じという意味での「リアリティ」がどうかという点で物事を見だした。

 

畑に行く途中の長い坂で、少し自転車漕ぎに本気になる。余裕の範囲内から出たとき、自分は生きて揺れていると思った。変わる存在としてある。余裕の範囲内にいるときは、変わらないものとして死んでいるなと思った。

 

レッスンのなかで、銀河鉄道の夜を題材に、声が相手の心に届くか届かないかを一人ひとりが何度もやった。一言一言が自分の思いや内面のほうに閉じているのか、それとも相手に届き、相手の心を動かすものなのか。

 

自分のほうに閉じた声と相手に届く声の違い。後者でやるときは、そこに自分が賭けられていると思った。自分は大分前から、そこに自分を賭けるようなことは避けるようになっていた。それは、自分の働きかけに対して相手がどうでようと影響を受けないようにするための防衛。それは自分じゃないものを演じることでもあり、自分を実際の感覚から遠ざける。

 

物語中の「さあ、下りるんですよ。」という短いセリフを何度もやり直した。「さあ」というときに相手に届く声であっても意識が抜ければ「下りるんですよ」はもう届かない言葉になってしまう。

 

相手に関わらない声を出すは、自分にも関わらない。言わば、死んだ人としている。届く声を出したときは自分も生きている感じがする。生きるというのはこういう感じなのかと思った。生き続けるというときの生きるではなくて、それ自体が生命をもつもの、こちらからあちらに動いているもの、その一瞬の生、一瞬の震え。その場に現れた一回性のエネルギーが弾けて、その場で消えていくもの。

 

死んでいるのか、生きているのか。
安定を求め、世界や相手に影響されないように、死人として生きている。面白いのは、生き「続ける」ということは、どちらかというと死としてあることに近いということだ。生きるということは、そのような偽の連続性とは対極にあるようだ。

 

影響を受けないように死んでいても、残念ながら苦しい。揺るがされる激しい苦しみがないかわりに、重い、変わらなさと虚しさ。生きているのに死を偽装しているのだから、一方で何かが生を激しく求める。作用と反作用。死を強制する自分への鈍い憎しみ。

 

死という殻で、自意識は守られている。自意識は平穏を願っている。何もおこらないこと。安定した死の世界を守り、敷衍しようとし、安定のために生を抑圧さえする。と同時にそのあり方を自分が憎んでいる。本当の死をむかえたい。それが自意識の底にある願いだ。生き続けなければいけない自分に死を与えて欲しい。終わらせてほしい。

 

死をまとい、生き続ける。転機にある人は、ある意味まとっていた死が死としての機能を果たさなくなっている状態にある。内在する苦しみを終わらせる衝動が、そのままを維持して生き続ける衝動の強さをこえる。

 

生きものというのは、どうもどちらかというと滞りのほうなのだと思う。変わり続けるものの一休みとして生がある。生き続けること、維持すること、同じであることに強迫されている。ところがそれを成り立たせているエネルギーは死ではない。そう思うと、死も本当の死はなく、一休みであるだけなのかなと思う。

唐芋通信第9号

「書きたいことは、野口さんのことだけだ。」とは、ぼくの声。さいきん、声にすることも躊躇わなくなった。だって、そうなのだ。野口さんのこと以外は、というか、野口さんの以外がないのだ。どうしたって、野口さんなのだ。

 

https://www.instagram.com/p/BLbPPExBi5h/

 


西陣古書店カライモブックスさんが出している唐芋通信第九号。

 

出る前にお店に行ったとき、校正をしている野口さんが今回の投稿に戸惑っていた。

 

今回は対話という感じだった。

 

僕は正直言って文学的なものにあまり反応できないけれど、唐芋通信を読んで、こどものみっちんのことばと順平さんのことばをみて、ものごとを遠くへ突き放すなあと思う。

 

日常では、周りのものを安全なものにしようとして何が何だかわからなくなっていく。働きかけで変えるということに血道をあげる。力で、生きることの大きさをねじふせようとする。

 

揺れ動かないものというのは、死なんだと思う。揺り動かされないようにするということは、世界をある種の死で満たしていくということだ。生は死の上にあって、死を肥やしにして、死に守られているのは本当だ。大きくなり、獲得していくこと自体が一面で死と同一化していくことなんだと思う。

 

世界との距離と変わらなさに戻る。弱さという震えは、安全にするために作ったものを揺りうごかして、戻りたくないところに戻してしまうような怖さをもつ。

 

怖さに耐えきれず、強くなっていこうとする。だけれどそれは実際には強くなってなくて、感じないように自分の持ちものを増やしていっているだけなのかもしれない。
持っていたものを奪われたときの、立ちすくみながらそこにある人は、遠くにいても存在への共感をくれる。同じ、ということだ。

変化と自意識の関与 楽器が弾けるようになるということ

作曲家の野村誠さんや京都新聞岡本晃明さんたちが東日本震災を受けて避難してきた人の情報共有の意味も含めて京都ではじまったインフォーマルな食事会、続いている。昨日は野村さんの誕生日の前日ということもあり、サプライズの小さなお祝いも用意されていた。


年男ということで次の回り年や、12年前はどういうときだったかという話しに。僕はちょうど12年前ぐらいに野村さんの参加するワークショップフォーラムに参加した。ワークショップという括りにおいてビジネス系やらアート系やら様々な分野で活躍している人たちが10人ぐらい集まった催しだった。参加者は実際にワークショップを体験しながら学ぶというスタイル。


僕のワークショップ観(というか場への見方というか)は、このフォーラムでの野村さんのあり方をみたことに大きく影響を受けている。野村さんの組は自分のワークショップの時間は穴を掘っていた。僕は別の組に属していたので、ちらっとしか見なかったが、何か空気感というか、時間の流れの質が違う感じがした。たとえるならそこの空気には酵母が殺菌されず生きているような。その酵母は息をする人間の体にも入ってきて、場はある意味、酵母の求めに応えようとするような、そしてそれが人間にもいいような感じ。

 

ワークショップという「型」が先にありきの場だと、こういう酵母はさっさと殺菌されてしまう。狙いがあってそれを体験させて学「ばせる」ような、人間を動くハードディスクか何かのように扱って、望ましい行動様式をインストールしようとしているところでは。

 

フォーラムでは、ワークショップ後、各組に別れた組の参加者がその組のファシリテーターとは離れて、参加者だけの「ふりかえり」をするよう求められた。その時野村さんは、当時の僕には「のんびりした」感じの声で、うーん、それはどうかなあ、一緒にやった人が分かれてやるってどうなんだろう、ふりかえりって感じでもないし、そういうのは僕はしたくないなあという感じのことを司会者に言った。

 

野村さんはこの時だけでなく、時々、おかしいと思ったことは進行の途中でも、その場でファシリテーターに伝えるということをされていた。野村さんの話しを聞くと、それまでこれはこういうものかとさらっと流せていたようなことのなかに、自分も実は違和感があったなということを気づかされたり、その指摘が真っ当で鮮やかだった。

僕はプログラムされた企画内容より、その野村さんのあり方に学びを得たと思う。野村さんにとって、ワークショップの最中も会場に一同を集めて司会進行しているときも、そこでおこることの重要性、自分がどのようにあるかは全く変わらないのではないだろうかと思った。

 

個々別々の企画内容ではなく、このワークショップフォーラム全体が、言わば一つのワークショップの場であって、企画者すら知らない何かの自律的プロセスが展開していく場であり、そこでは進行のために黙っておくとか、自分の感じは脇においてとか、そういうことがむしろ会の趣旨を駄目にしてしまうのではないか。発酵に必要な熱をいったん提供して、次は別のことやりますからみたいな、生まれてきた熱をうっちゃってしまうようなことは本末転倒だと思う。

 

その後何年もたち、何でもない一参加者の自分が、野村さんとまたであって、しかも講師と参加者みたいなことでもなく、フラットな立場で話しができたりすると思わなかったし、当時の感覚から見ると何か現実感がない。何となく、なぜか、そうなっている。

 

昨日は、野村さんにどう思うか聞いてみた。たとえば、力をもたない少数者が多数者の社会を塗り替えてしまうということはもしかしたらできないんじゃないか、恒久的な平和であれ何であれ、強いものの理屈でできる社会を全体として変えることはできないんじゃないかと。

 

少数者が逆転して力を持つことはある。しかしそれはやはり別の強いものができたというだけで、全体としての社会が強いものが強いものであり続けるための仕組みになることは、変わりがないのではないか、とか。

 

野村さんは500人が楽器をもち、統制者をいれるということがどういうことか、そしてそれに対してあるいは個々がバラバラに演奏するとき、たとえば別の大きな音を出す楽器にウクレレは打ち消されてしまうだろう、しかし同時に、ウクレレの小さな音が、聞こえるようなことがあればそこに可能性はあるかもしれない、と言われたように記憶している。

 

打ち消されるウクレレが、しかしその騒音のなかで誰かに届くということは、どういうことだろうか。どうやったらそういうことがおこるだろうか。

 

そしてそこと直接関係するかはわからないけれどと前置きして、野村さんは楽器を弾けるようになるということについて、お知り合いの演奏者から聞いた話しをシェアしてくれた。

 

楽器というのは、明日の本番に対して今日練習したからといって効果が出るわけではない。今日の練習が効くのはは3年後とかそういう感じではないかと。できないことはなかなかできない。でも、練習を続けていると、思うように出来なくても、ちょっとそのマネのようなことはできるようになったり、少し今までできなかったことができるようにはなっていく。そしてあるとき、できるようになっている。

 

野村さんの話しを聞いている感じでは、なぜ、できるようになったのかははっきりと自覚を伴うようなものでもなさそうだった。練習を続けていくなかで、ふと、何となく、そういう状態になっている、みたいな感じだった。

 

「諦める」というときには、その背景に大きな期待があると思った。その期待を満たすことはできないだろうという理由で、続けることをやめるのだろう。将来との取り引きとして、続けることをやめるのだ。その一方で、楽器を演奏するそのこと自体への喜び、快楽の存在というところに話しの焦点があたった。それがあるから続けられる。ただやるだけでも快楽があることがベースで、それに加えて少しだけこうやってみたいとか、こうなってみたいとかがあるときに続けられる。

 

それは「成果」を求めているようで、求めてないような感じだなと思った。少なくとも自意識は直接「成果」をコントロールできないし、直接にコントロールできると考えるときには、期待による多大な心理的負担が生まれてくるのではないか。自意識的には「成果」を絶対確実に得ることを放棄していることが、持続すること、結果として「成果」を得ることに貢献している。「成果」がなくとも働きかけ続ける営為を成り立たせるためには、楽器を演奏することそれ自体に快楽があることが重要だということなのだろう。

 

直接に「成果」を得ようとするときには、未来との距離に生きている。だが、今の快楽に根ざして続けるときは、未来や成果は派生としてある。直接のコントロールではなく、変化を派生として位置づけるということは、教育や心理医療など他の分野にも通じることだろうと思う。

 

子どもが、良寛の住まいに来て名前を呼んで良寛が出たら隠れてしまういたずらを繰り返していたという話しを読んだ。良寛は何度やられてもそのたびに表に出るという。良寛は何も覚えないのか。あるいは、おこることに対して、過去を紐付けず、心と記憶の粘着を切るあり方、過去から未来へ一貫して存在する「私」という仮想現実を消失させた反映としてそのようなことはおこっているのかとふと思う。

 

「続ける」という言葉にはぎりぎりした締め付けるような縛りがある。来るか来ないかわからない未来を前提しているからだ。未来というものがたぶんくるだろうけれども、それは「虚」であるととらえてみる。

 

「虚」と「実」は互いに依存したり、反転しあって存在する。最近はこの捉え方が心をうまく説明するような気がする。「お金より大事なものはない」というとき、それは間違いだというよりも、それはある仮定における「実」を表現したものだと思う。と同時にその仮定が「虚」だ。お金より大事なものがなければ何とも交換できないし、インフレとかおこれば意味がなくなる。あくまでその力は、社会が明日も同じであるという「虚」の前提を持たなければ「実」は「実」たり得ない。

 

全てを捨てて生きるのが「実」だ、調和と自然のもとに生きるのが「実」だというのも、想像以上の気候変動とか宇宙から隕石ふってくるとか、究極的には何がどうなるかわからないこの世界において、生き方というものに正しさがあるのかという視点からみれば、こちらも自分が想定した同じ状態が繰り返す限り、という「虚」の前提が必要だ。

 

ともあれ、未来を仮定して生きる「虚」と今しかないという「実」(これ自体も「虚」の仮定だけれど)という視点からみれば、「虚」のために心は犠牲になる。心は今にしかないから。

 

一方で、現実的に生活を成り立たせるのが「実」で、その場限りものというのは責任放棄であり、「虚」なのだというのが、この社会の理屈だ。とてもリアリティをもって迫ってくるし、その仮定を前提するならば妥当なのだけれど、それが「虚」であるという自覚がないから、際限のない強迫が生まれてきて、それによって心が疎外される。生きていくことを豊かにしようとして、生きていることを苦しくしていく。

 

野村さんは相撲にも深い関心を持っていて、一ノ矢さんという元力士の話しを時々される。一ノ矢さんは、大学卒業後小さな体にも関わらず、相撲界に入り、47歳まで現役をつとめられた。最高位は東三段目ということで、世間的一般的には相撲で花ひらいたとは言い難いらしいけれど、その年令、現役最年長まで取り続けられたのは、それが世間に評価されるものではないかもしれないが、常人にはなかなかない何かを持っていたということなのだと思われる。そうでなければ、辛くてそうそうに辞められたことだろう。40歳をこえてもどう体を使うのか、使えるのかを追究していて、年をとるのが楽しみだとさえ言われていたそうだ。今、その追究は書籍となって出版されている。

 

向き合っていたものが、自分のなかの自律性であるとき、何かが学び続けられ、変わりつづけている。このとき、社会でいう「虚」を軸に自分は生きているのだろう。だがその「虚」が「実」だ。これをやったらこれを得られるというギブアンドテイクで生きると心は自律性を失い、疲弊していく。心の状態は社会でいう「虚」に生きていけるようにするけれど、同時にその「虚」は社会でいう「実」に依存している。相撲の世界がこの社会で成り立ってなければそもそも「虚」の追究もできなかった。だから結局は「実」だろうとそちらに走ると苦しくなる。「虚」は「実」に依存しているが、「実」は「虚」としての心を生かし、解放するためにある。

 

目覚ましい「成果」を期待せず、今にあり、世界が変わる前から、今のなかに充実をつくりだす。明日の世界はイメージしていても、今の世界の整えを淡々とやる。そのことが実際に何を生んでいくのかは自意識は知らない。結果は自意識がコントロールできることではない。それを体が理解する時、解放が訪れる。ただ心にとってほどよい整えの結果が変化と呼べる変化、500の騒音のなかでウクレレが届くようなことがおこるのかもしれない。

 

 

音楽の未来を作曲する

音楽の未来を作曲する

 

 

『屍鬼』読み終わる 生の呪いと更新作用の相克

文庫版、残りの4巻と5巻が図書館にきた。

 
最近友人と話したとき、僕は人間は生命を生まなくて、生命が生命を生むと考えると言った。生むというのもおかしいかもしれないが、生命は、働きであって、生きたり死んだりするものではないだろうと思っていて、それを操作したり、働きを媒介したりしたからといって、人間が生命をどうこうしたとかいう言い方するのは、とんだ話しだなと個人的には思う。

 


私という自意識が生命だというのは、たとえ多くの人が疑問なくそう考えていたとしても、実態なのだろうか。自意識とは、生命の主人公などではなく、生命の花火に派生した煙のようなものではないだろうか。実のところ、川の流れのなかに派生した渦のような、見かけ上の実体ではないだろうか。だがそれを実体と考え、そこへの同一化や信仰を維持することに血道を上げざるを得ない仕組みになっている。

 

生命が働きであるならば、死を求めるのもまた生命だ。古くなった殻、古くなったシステムを更新しようとする。ところが古いものは抵抗する。平衡が崩れ、危機に面すること、死すことを恐れ、維持にしがみつく。舟に空いた穴を直視せず、穴を否定するような本末転倒に陥る。

 

「私は自然とは保守性であると思う」という大分昔に読んだ畑正憲の本の一節を覚えている。どちらかというと「常識」を覆すほうのことを好んだ彼がこの認識であるというのは印象に残った。

 

畑正憲作品集 2 ムツゴロウの博物誌

畑正憲作品集 2 ムツゴロウの博物誌

 

 

 

生きるものは敢えてリスクを冒さない。危険を冒すのは基本的には、既に危機にあり、そのままではいられないことが体感されているときぐらいだ。生きることは、どちらかというと、安定したものにしがみつくことのほうに重点が置かれている。

 

ところが、この生きものとしてのしがみつきが往々にして盲目的であることが自己矛盾をおこす。しがみつかないほうが長い目でみると生きていくことにとって有利であろうと思われるときもしがみつく。自己破滅的なしがみつきをする。

 

生きていくということは、変化をすることよりも、環境や状況によって状態が変えられることを拒むことに反応の軸がおかれている。生体としてそのようになっていると思うので、大きな変化、質的な変化をしなければ生きていけないという状況が、生きものにとっては基本苦手なのだと思う。

 

生きていくということが、あまりにも、何をおいても優先される身体であることが、逆に生きることを行き詰まらせる働きをする時がある。これが生きもののもつ自己矛盾だ。この行き詰まりは長い時間生きるというときに顕著に現れてくると思う。そして特に自意識は、生命の更新作用に対して強く抵抗する。

 

物語における不死は、この生きものがもつ呪いのような、生きるための保守性、同じあり方への盲目的しがみつきが(生きもの以前にあるものとしての)生命の働きがもつ更新作用と相容れない苦しみをテーマにしていると僕はとらえている。齟齬をきたしはじめているのに、なお同じままであって生を維持しようとする閉じた繰り返しは、周りの生命活動や環境との関係性に破綻をもたらせていく。

 

吸血鬼は不死の苦しみをもっている。自ら死にきれないが、死を求めている。苦しみの終わりを求めている。だから吸血鬼でさえ、死ぬ瞬間には往々にして感謝の表現をする。死んでいるのに、死にきれない苦しみが終わることを喜ぶ。

 

自ら死ぬことができないのは、苦しいからだ。痛み、恐怖によって行動は決められている。死にきれないことは、死の呪いではなく、生きものがもともともっている呪いなのだと僕はとらえる。この保守性、この死にきれなさこそが、生きものが不可避的に抱えた苦しみなのだと思う。

 

生の素晴らしさを強迫的に賛美することへの動機には、むしろ無視や抑圧がある。見ないため、感じないために高揚が必要なのだ。それは飢餓を一時的に満たすための血液だ。しかし、その根本的な不足の原因は、死んでいるもの、成り立たないものが無理やり生きようとしているところにある。麻痺するために必要なものはより多くなる。どのような場合でもいずれ足りなくなる。

 

だがここで興味深いのは、どのように保守性を維持しようとしても、その一方で切実に更新を、死を求めていることだ。それは素直にいかない場合、破滅を求めるというかたちになる。この苦しみを一点に凝縮し、ぶつけたい。そのことによって生が報われるような感覚を持ち出す。その欲求に駆られるようになる。それは現実の行動や思考の一貫性を犠牲にしても自律的に動き出す。

 

屍鬼』においては、人狼がそのような状態を表現していた。
人狼について説明すると、屍鬼(←大体において西洋の吸血鬼と同じ特徴をもつ。)は夜しか活動できないが、屍鬼によって襲われた人のごく一部は人狼という存在になって、昼も活動できるし、血液以外の食物も食べることができる。屍鬼は朝になると強制的に眠ってしまうが、人狼にはそういうこともない。

 

人狼は肉体的にはあらゆる面で屍鬼をこえていて、その気になれば昼に活動を停止している屍鬼を殺すことさえできる。だが物語の人狼は自らの意思に従って屍鬼の首領につかえていた。

 

ただ生き続けるという終わりのない虚無のなかにいた人狼は、屍鬼の首領がある村を乗っ取って屍鬼の村とするという破綻を内在した計画に惹かれた。それは彼にとっては彼の生の苦しみを凝縮して世界にぶつけるものだった。そのようにして終わらせたい。今までの抑圧された生に対する弔いの欲求をもつようになる。

 

生き続けるということに対しては、合理的ではない欲求が高まり、その欲求に行動や判断が引きずられるようになる。物語における不死者はこれをとどめることができない。それは結局、生命の働きによる更新作用なのだ。自意識でしがみこうとしているのに、欲求は死を、終わりを強く求めだす。

 

人間に絶望し、屍鬼にならず屍鬼に隷属した桐敷正志郎や村の信仰の要として、形骸として生きなければならなかった寺の住職である主人公室井静信。彼らは、人間が生きるために自らつくりだしたシステムの犠牲者だ。彼らにとっては、社会や村のシステムこそが死であり、その死に抑圧された生を送っていた。精神的な死者として生きていたのだ。

 

抑圧された生に対しては、更新作用が高まる。恨み、怒り、反逆への欲求。それらは無自覚にしかし確実に心を支配していく。宮崎アニメの、死んだ城塞都市が大きな木に乗っ取られて、木の方がむしろ本体になるかのように変わっていく。それが最終的にどのようにいびつで、破綻的な結果を生むことになっても、その高まる欲求自体はとめることができない。それが生命の根源的な更新の働きだからだ。逃れることはできない。

 

生は、古いシステムへのしがみつきとして死にきれない傾向をもつ。同時に、そのシステムを破綻させようとする生命の働きにも勝つことができない。

 

そして自意識というものは、どちらかというならば、生命の方のものではなく、システムの方のものなのだ。それは死物であり、潜在的に常に更新を求められている。同時に決して死のうとしないという、生きていくために与えられた呪いを持っているけれど。

 

 

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

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