生き残りというと大げさな言葉になるけれど、それが腑に落ちる言葉だし、それを軸に考えていける概念。環境、福祉、教育、農等々と分野に区切って考えてしまうことで見えなくなるものがあると思う。教育と環境と福祉とはそれぞれ違うことなのか。
社会が基本的に理性的で調和的であって、それを信じて任せておいていい、あるいはちょっといい感じのものを応援していればいいと思うか、それとも社会がその実荒野であって、人間の身体的、精神的生存のためには、それぞれの場所で自ら小さな自律的生存圏をつくる必要があると思うか。人それぞれかと思うけれど、僕は後者の認識だ。
小さな仕事をつくり最低限の現金収入を得る。加えて自給することによって、生存の土台を補う。1人の単位でも食物の自給はできるけれど、1人で油とか調味料までつくっていくのは大変だと思う。
1人ではつくれる豊かさに限界があるので、基本的な自律性は担保しながらも、あるところではパンつくれたり、味噌つくれたり、服がつくれたりすることが必要だろう。
いざハイパーインフレ、経済破綻みたいな状況がおこったときでも生きていく。そんなときになっても、お互いに人と人として生きていけるという土台があることが社会に対する働きかけの力も育てると思う。
祝島が何十年間も原発をつくらせないことができたのも、住民は衣食住をお金に完全依存していないからだという。
それぞれの自律的コミュニティをつくり、同時にテーマをもち、その分野における学校としても機能する。学校として一つ現金収入を得れる間口にする。コミュニティ間に人の行き来、移動が欲しいのだが、ただの自律的コミュニティであるだけでは、オープンといっても行き来が生まれにくい気がしている。
それぞれがあるテーマをもつコミュニティなら、お互いにメンバーを行き来させやすくなると思う。あるコミュニティに必ずしも誰もがあうわけじゃないから、コミュニティ間を移動し続ける人がいてもいいように思う。テーマ・コミュニティは挙手性で、お互いのコミュニティの了解があれば別に日本でも海外でも、新規のものでも、昔からあるものでもつながればいいと思う。 あとピースボートで、乗船するためのお金がお手伝いで割り引かれていくように、お金を払うか、お手伝いするかは選択できるようにすると、現金収入も得られるし、お金がない人もたとえば住み込みで働きながら学べるということができていいと思う。
教育を自分たちのほうに取り戻すということも重要なことだと思う。あとピースボートで、乗船するためのお金がお手伝いで割り引かれていくように、選択制で、現金収入も得られるし、そのコミュニティの仕事のお手伝いによって、学びの機会を得られるかたちがいいなと。