降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

自分を自分にしていく対話 自律的空間をつくりプロセスを展開させていくこと

何かの話しを聞いたり、いいと思える方向性を知ったからといって、そのまま自分の世界との関わりが変わっていくわけではない。

 

自分の状態が今の体制から別の体制に変わっていくためには、そのリハビリ、エクササイズをすすめていくに適した媒体が必要だ。その媒体を通して自分が直面するリアリティによって、ようやく行動や認識が再編され、自分の体制が変わっていく。

 

自給やDIYは、それ自体が目的なのではなく、自分の認識や体制を再編していく媒体として捉えるのが妥当だと思う。自給やDIYを通して何をリハビリしているのか、何のエクササイズをしているのか。

 

そのリハビリは、世界と自分なりの繋がる接点をもち、それをひろげていくリハビリだと思う。

 

自分でもよくわからない求めがあり、それを確かめるために世界と色んなあり方で関わり、対話し、その求めを知り、遂行していく。それが順番であり、自分が求める前に提示されるような勉強は学びというものの本質的なところから真逆に行くことだと思う。

 

だが多くの人がそんな条件づけをされている。そのような人を主体として疎外する教育、あらかじめ決まっている知識や技術を受動的にインプットしていく、お金をただ口座に入れていくような「預金型教育」をフレイレが何十年も前に批判したところで、世間はどこ吹く風だ。

 

多くの人が条件づけられた自分を自分だと思ってしまう。条件づけと自分が一体化している。そのことは世間の大多数の道を歩んでいるときはさして不都合でもないが、自分として生きることが必要になってくるとき、行き詰まりをおこす。

 

そのため条件づけから脱し、自分が自分としてあるということをわざわざ取り戻していく必要が出てくる。そのリハビリは自律的な空間を作っていくということによって可能になる。他律的な空間ではやるべきこと、あるべき姿、関わりかたは既に決まっていて、それをしなければならないからだ。

 

だから自分にリハビリする自由を与えるためには、小規模であれ、自己裁量で必要な調整ができる空間が必要なのだ。どのような自由が自分に必要なのか。それも確かめながらその空間や媒体を対話的に作っていく。確かめること、実験していくことと遂行していくことは、ここでは循環的なものとしてある。あることが明確になってくれば、それが基盤となった世界との関わりがまたひらけてくる。そこには終わりがない。

 

自律的な空間をつくること自体が目的ではない。それはあくまで自分が世界とやりとりして変容していくための手段であり、方法としてある。目的は対話だ。自分にとって必要なやりとりを続けること、そこにおこるプロセスを展開させていくこと。そのことが自分が自分として充たされ、更新されていくことを可能とする。