読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

高槻の生命誌研究館に行ってきた 

木曜日は高槻市生命誌研究館に。

鈴鹿の人たちが来るというのでご一緒させてもらう。

 

www.brh.co.jp

 

先について入ろうとすると自動ドアが開かない。あれと思って横の手動のドアがあくのかと思って移動しようとすると中のスタッフの二人が出てきてくれて開けてくれる。古いから反応しにくいとのこと。仕事の役割としてやっているという感じじゃなくて、素の人として迎えてくれている感じだった。その後の案内でも、本当に自分がこのことを紹介したいという感じがあって、とても印象的だった。ここもたぶん素のままでいれる職場なのかなと思った。

 

僕は人間や自分のことを考えるにあたって、自然とは何かとか、生きものとはどのようなものかということをよく参照する。生きもののありようの多様性が新しいものの見方を提供してくれる。

 

ある考え方が行き詰まるとき、あるいは他の考え方と矛盾して膠着するときは、その考え方の前提に誤りがある場合が多いと思う。生きものや自然のあり方をみると、それらは既に答えを生きていて閉じた行き詰まりに穴を開けてくれる。行き詰まりを開くためには、別に何から何まで含めた全体を知る必要はなくて、今の行き詰まりを支えている考えや前提を成り立たせなくさせるだけでさしあたりは十分だ。あとはそこから確かめて押し広げていけばいいだけだから。

 

世間でもっともらしく言われていること、押しつけられることを自然はこえて存在している。だけれど自然の表面上のことだけピックアップして歪め、「自然は」こうだからと人間の抑圧に使われる場合も多い。優生思想などはその典型的なものだ。優れている生命が「正しく」劣等なものは排除されるべきである。自然はそうだからとこじつけるわけだ。

 

森岡正博さんによると、日本でもこの優生思想に基づいて1996年まで人工中絶が規定していた。優生保護法の第一条は次のようになっていた。
http://www.lifestudies.org/jp/yusei01.htm

 

ーー
第一条 この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする
ーー

 

不良な子孫というこの文字は、障害者団体の長年の運動によってようやく改正されたという。このような思想が生まれる基盤を提供したのがダーウィンの進化論だ。生き残ることと優生思想には密接な関わりがある。

 

自然界は適者生存。ある環境においてより優れたものが生き残る。だがそれはただの結果であり、「あるべき姿」とは何も関係がない。生き残るものが生き残ったというだけだ。それをあるべき姿として積極的に利用する優生思想は歪んでいる。もしそれが本当の理なら、何も意図的にしなくても自然にそうなるわけで、積極的に中絶したり、民族浄化を行う必要はない。自らが自然の代弁者、代行者として、弱者に配分される資源を奪う。要はその奪いをしたいわけで、自然は正当化の理由、こじつけにすぎない。

 

障害が今自分にはない人は想像しにくいのかもしれないけれど、自分の役に立たない人はいらないと言われる環境で心をもった人間が人間らしく生きていけるだろうか。明日何らかの病や障害をもち、役に立たなくなれば途端に終わりだということがわかっている社会は生きづらい。

 

人は人の役に立つ間だけ存在していていい。そういう社会に誰が生まれてきたいだろう。だが、自分がやらないならば、誰かが作物や動物を育てなければ生きていけない。その人たちに働いてもらわないと生きていけない。生きるために必要なことを成り立たせないと生きていけない。だから生きることを絶対化したときには、他者の抑圧も許可されるものになってしまう。

 

生きるということを単純に「いいこと」、「素晴らしいこと」、「当然のこと=他者に強制できること」と前提したときに弱者抑圧は自然に派生する。生きるというのは単純に良いと悪いとかを決めて高をくくってしまえない業の深いことだと思う。生きるということ自体を絶対化して検討の外に置くのではなく、相対化する視点が必要だ。

 

自然は地球の生きものの全てを産んだ母であって、同時に生きものが生き続けることな
ど意も理介さない理屈で動いている他者だ。地球の自然を小さく定義するなら人間はそこを逸脱したのだろうし、宇宙をふくめた自然を想定するなら、原発であろうが遺伝子組み換えであろうが、あるものが可能性を展開しただけ。そこではどこまでいっても自然でしかない。ただ生きものに都合がいいか悪いかということがあるだけ。良い悪いは生きものの世界にしかない。

 

だが宇宙をふくめた自然にとっては、生きものなどもともとあるものの一時的な形態に過ぎず、生きたからいいとか死んだから悪いとか何もない。その視点からみるとき、生きものというのは産み落とされ、置いてけぼりにされた孤児であって、生とは儚い夢のようなもの。優生思想が求める優秀さ、能力の高さなど、この儚さのまえに意味がない。全ての生きものは、もうおいていかれているのだから。おいていかれたものとしてあるとき、やさしさは生まれる。意味の無さを獲得することは、有用性から人間の心が疎外されることを終わりにする。

 

進化について書くのを忘れていた。

 

生きものは自分から求めて進化しているだろうか? そこを見ていくと、進化というのはどちらかというと仕方なくおこっていると理解したほうが筋が通るように見えてくる。海の競争の圧に耐えかねるものたちが陸にあがり、そしてそこでも生きるための圧力が高まっていけば生きものは空へと繰り出した。生命誌研究館の進化の展示が面白かったのは、魚類→爬虫類→哺乳類→鳥類という順番にされていたところ。

 

生きものが自分から進化したいものだとか、進化する自律性をもっていると見なすのと、環境の変化に対して仕方なく進化しているとみなすのかで、生命観は真逆にもなるだろう。そして今の社会の強迫はあきらかに前者の見方によって生まれている。しかし生の実態が後者であるならば、まるで倒錯的なことをやっていることになる。

 

進化とは生きものの死にきれなさがおこすものだと思う。
そしてもともとある死にきれなさを人がさらに利用して、恵みを自分のもとにかき集めようとしているのが今の社会ではないだろうか。死にきれなさは業だ。それに飲み込まれ支配されるのか、それを逆手にとり、生きながら生を超えていくのか。後者は生に対する反逆だ。しかし、この反逆のなかで心は生きる。この反逆のなかにやさしさが創造される。