動いているもの、絶えず変化しているものがあり、その一方で相対的に変わらないもの、固定化したものがある。後者が一種の死であるとしたら、生きものが恒常性とか動的な平衡を保とうとすることは、ある種の死を目指そうとする運動であるともいえないだろうか。
速く動き続けるもの、変化し続けるものは生きものとあまりそぐわない。大まかにいって変化しにくい安定的環境だから生きものが現れてきた。そういう意味ではどちらかというと生きものは変化することより、変化しないほうに傾いている。
体の全てが流動的なら体が保てない。更新が可能といっても学習はどうしても記憶の固定化の側面を拭えない。変化しにくいものを取り入れて生は成り立っていて、自意識は変化しないもの=死をやはり求めている。
生とは変化のひと休みであるとすると、変化を価値とし、速く変えようとすることは生のありようと逆行している。
ならば、世界を死だと設定してみることが生を救わないだろうか。いや、実際には死として存在する自意識にとって、自身を投影して理解する世界は死んでいるように受け取られているというだけであるのだけれど。
既にエピローグのなかに生きていると設定する。そこでは全てのものはもう取り残されている。どこに行くところもない。そのときあらわれるやさしさがある。やさしさは意味に奪われた世界の疎外を相殺し、無に帰すものだ。
自意識がどこかに行こうとすること自体が、置いていかれるもの、除け者にされるものを生んでいるのではないだろうか?
死が死にとどまるとき、逆に生は展開する。死が生を生きようとするとき、死は生を殺す。