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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

対話とは何なのか

対話は、お互いが全く違う前提をもった別々の存在であるというところから始まると思う。同じ前提を持っているときは、正しいことも間違いも既に決定しているのでそれは対話ではなく、通達だ。


ところが他者はいつも同じ前提を持っているわけでないから通達が通じない。言い方を強めたり、何かを後ろ盾にして無理やり押しつけても状況の肯定的変化には結びつかない。


問題とすべきは、既にお互いが持っている無自覚な前提。その前提は、他者にとって迷惑なだけでなく、自分もまたそれによって世界との豊かな関係性を持つことから疎外されている。


相手を攻撃したり教えたりするのではなく、ただ共に探究する。尊重や安心なく人に肯定的な変化はおきない。無自覚なものは他者の問いによって明らかになるのだから相手は自分のために存在してくれているのでもあり、お互いに自分の手の届きにくい背中の流し合いをしているようなもので、競争でも勝つ負けるを持ち込むようなことでもない。


相手を自分が思うように変えようとすることに意味はなく、そうすると状況は停滞するだけで、悪化さえする。対話をするのは、見えない自分の背中を見るためなのであって、相手ではなく自分が自分の無自覚なものに気づくことをやろうとしてないとそもそも対話にならない。


安心できて尊重される場では、気づきが誘発される。内にある自律性が働きだし、回復的なプロセスがおこってくる。だがそれを直接目指すと場に「こうあるべき」が生まれてプロセスは展開しにくくなるので、「問題解決のための対話」よりは、対話はただ対話のための対話であるほうがいいと思う。


僕にとって対話はお互いが相手の存在によって、自己更新していくのが趣旨であり、自分のなかに固定化した無自覚な前提を破綻させていく営みだ。無自覚な前提は、感情の自動反応をおこす原因となり、人や世界との関係性を疎外する。


対話では相手からの問いによって、無自覚なものが観察され、光が当てられる。よって問いはそこに尊重があることが欠かせないのと同時に適当なごまかしや偽りがあってはならない。それならそもそも対話をする意味がない。


無自覚な前提によって自分は不自由になっているのだから、それを取り去っていくことにより、精神の自由さや通りのいい気持ち良さがそのたびに回復していく。


対話のその機能を効果的に生かすために必要なものは何なのかと考える。一つは、自分で観察する力、何がおこっているのかを自分で見ていく力を増していくことだろう。一体化している無自覚な思い込みを他者化し、離れていく力。誰かにやってもらうのではなく、個々自らがその観察の力をつけていくことで、対話の充実はさらに大きくなるだろう。


問題解決のためではない対話をするために、テーマを設定することは有効だろう。どう生きるのか、死ぬのか、社会とは、人と人との関わりとはというような、答えが自分次第で常に更新されていく終わりのない問いを持ち、かつ自分事と離れていないテーマがいいのではないかと思う。


あるいは対話自体を学ぶということを趣旨にすることができると思う。対話とは何か、対話でおこることは何か、対話の副産物として何が生まれるのか、個として対話に理解を深めていくことに何の無駄もないだろう。


安心安全で尊厳がある環境はそれ自体を目的にして直接的に達成しようとするより、学ぶということがあって、その学びが展開されるために必然的に求められ調整されるものとして安心や尊厳が派生するほうが健康的だと思う。


というか、そもそも無自覚な前提をそれぞれが自己更新することもなく、自分の知っているものを直接的に求めていくのは実際的には単なる押しつけと抑圧になるだけで達成などあるわけがないだろうけど。