読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

フィルターとしての言葉

言葉は存在しない痛みを作り出せる。


あと2日で締め切りだとか、やらなければいけないことがたくさん思い浮かぶと実際の身体に与えるストレスが生まれる。


しかし、実際に期日を守るかどうかはおいて、その思考がおきなければ苦しみは発生していない。同じことを1日に3回思っても、1回思って期日は変わらないが苦しみは考えるたびに現れる。


身体に影響を与えられるリアリティと現実は別物だ。問題は前者であって、前者をどうにかしたい。言葉に対する心の反応のみとれないだろうか。


存在しない痛みを作り出す仕組みを想像してみる。


プロジェクターのスクリーンのように、上に巻かれた色つきで半透明のフィルターとそれに付いている引き手がある。引き手を持ってさげれば世界がフィルターの色を通してみえる。


フィルターには色以外にも模様があり、フィルターを重ねることで模様を重ねることもできる。引き手に手をかける人は通常の視力を持っていないが、フィルターを下げることによって、その模様と色を通してはじめて世界をみることができる。


その世界はフィルターを重ねることによってしか見えない。言葉とはそのフィルターだ。


目の見えにくい人に見える人が言葉を使って芸術作品を「鑑賞」してもらう取り組みがある。その構造と同じだ。


心の世界は言葉を通して作りあげられている。目が見えていても、心のなかに作り上げられている世界は見えない。


言葉というフィルターの引き手を下げるとき、そのフィルターの色と模様がみえる。フィルターを幾つも下げることによって世界は構造化され、見える化され、理解される。フィルターがさげられるまで思考による世界はない。心にとって世界はそのまま見ることはできないもので、見ることができるのはフィルターの重なりだけだ。


やらなければいけないことがある、と言葉で思い浮かべる。一つのフィルターがさげられる。フィルターを通してリアリティが作り出される。


この時、見ているものはフィルターなのか、それとも本当の現実と信じこんでいるのかで違いが生まれる。フィルターは現実とある関係性を持っているのだが、フィルター自体は現実ではない。


「やらなければいけない」は、自分が引き手を持って下げたフィルターだ。


フィルターを下げることによって、人は「明日」というものを作り出し「理解」することができる。しかし心にとって「明日」は言葉上の架空のものだ。作り出さない限りない。「やらなければいけない」も作り出さない限り存在しない。


心のなかに架空の世界を作り出すのが言葉の力だ。しかしその作り出された世界によって人は逆に支配されてしまうのだが、もはやそのようにしてしか社会は構成されておらず、その仮想現実の演劇を通して生きるしかない。


しかしこのことを理解することで心の反応を落ち着けることができる。


心のなかに世界は構造化されているが、それらはフィルターの模様の重なりでしかない。「やらなければならない」フィルターを通して社会生活を成り立たせるのだが、フィルター自体は現実でも何でもない。


フィルターは、自分が気づいた状態でおろしているものもあり、気づかず引き手を下げっぱなしにしているものもある。


無意識化した人間観、社会観のようなものは、フィルターとして世界を作り上げていながらそのことに気づかれない。しかし問いや吟味によって意識の光をあてることにより、フィルターとして気づかれると引きっぱなしにしていた引き手から手を離すことができる。その瞬間、フィルターは上に巻き取られ、世界は違ったものとして見えてくる。もちろん別のフィルターになるというだけで、いつまでたっても世界そのものは見えないのだが。


「あると思えばある、無いと思えば無い」という言葉などはこの辺りの仕組みをさしているのではないかと思う。


「闇の夜に 鳴かぬ烏の声聞けば、生まれるさきの父母ぞ恋しき」


今までの視点でみれば、この歌は、言葉が本来一体であった自他を分け、そのことによって故郷から離れた個としてあるが、そもそも心の世界に自他も父母もないというようにも解釈できないだろうか。

鳴かぬ烏の声をきくとは、そもそもあり得ぬ世界を言葉によってつくるとそこに別のリアリティが生まれることをさしているのではないか。