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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

強い価値をつくること

マツコ・デラックスさんの男女平等についての言及についての、おきさやかさんの言及が気になった。

 

まずマツコさんの元の記事で、マツコさんは以下のように述べたとされる。

「この世界は男の世界ですよ」

「これまでは男の人の基準に女の人を合わせることが平等だった」「『男がしてることもしていいよ女も』っていう男女平等だった」

「女の人が男になろうって無理をせずに、男と同じ権利が与えられる世の中にならないと、ほんとの平等じゃない」

 


マツコ・デラックス 日本における「男女平等」の盲点に苦言 - ライブドアニュース

 

それに対するおきさやかさんのツイートでは、フェミニズムの世界では大昔から言われていたことが、ある程度以上の社会的ステイタスを持つ人が言ってようやくまともで新鮮な疑義として受け取られることへのやるせなさが感じられる。

 

 

マツコさんはまた、女性政治家の増加については

「スカート履いてるだけで、中身は男じゃん」 

 と述べている。


そのとき、男や男社会というのは、何なのか。

記事に言及する別のツイートで以下のようなものもあった。

 

 同じ意見。でも男社会はそれを受け入れない。だって、受け入れたら負けるのが確実だから。常に優位に立っておくには、そういうことをないものにしておかないともたない男。 

 

そもそも社会がまともなものか、そうでないものかというところで、人の認識は別れるだろうなと思う。理性的に交渉し、やりとりすることで平等が達成されるのか。人の目がある舞台の上、公の場ではこの前提にそった演劇をすることが政治家にもそうでない人にも求められるのは間違いないけれど。

 

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経済が支配する社会は、本当に平等を目指したりしない。その社会をどんどんと回すためには強いものと弱いものがいる。弱いものをねじ伏せる価値と仕組みをつくり、無理やり従わせることによって強いものの求める環境が実現される。「男社会」とは、何であれ強いものが強い価値で弱いものを動員し、自らを肥やすための社会だ。もし、今の社会の大枠をつくっているそもそもの目的がそのようであるならば、平等などはお題目であり、ある価値がなくなっても、別の強い価値が弱いものを従わせるためにつくられる。

 

弱いものが強いものの演劇空間を唯一の現実だと思うように社会はメッセージを送ってくる。強いものがより強くなれるように、弱いものをより楽に思い通りに動かせるように。その演劇は、強いものと弱いものとの不平等で不十分なコミュニケーションツールではあるけれど、現実ではない。それを真に受けているとどんどん死んでいく。

 

どんなにすげなくされても、なぜすがろうとするのか。中身のない言葉一つに希望をつないで、自分の生をそこに投げ捨ててしまうのか。それはここが荒野だということを認めるのが嫌なのだと思う。この社会が荒野であり、そこで生きていくことが恐ろしいのだ。社会はいつも保証を提示して人に言うことをきかそうとする。人は社会から保証の口約束をもらうかわりに奴隷になる。本当は人に人の生を保証できる力などなくても。