降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「成長」しない

前提のなかに今の自分の否定が入っていると、出てくる結果もそれを反映する。「成長」という言葉の被害が大きいと思う。一見もっともでどこにも文句をつけるところがないようだけれど、そのせいで余計にたちが悪い。その偏り、強迫が実態に即して中和される必要があると思う。

この言葉は、まず時間的に十分な先がある人に向けたもの。お年寄りで、先が長くない人、あるいは認知症をともなった人、ある種の障害をもった人などは、今あるものを失っていく過程にある。その人たちに対して残酷な言葉になる。知り合いから、カウンセリングなどでも、重いトラウマを抱えているのがわかる老人に対しては、もうそれに直面化させないと聞いた。

 

「成長」という言葉には、いわゆる「自己責任」と同じく、他者への強制が含まれている。その「自己責任」とは、わたしは決してあなたに自分の力や時間を提供して助けないという表明が動機の主なのであって、自分自身に対してではなく、助けを求められるいること、あるいは将来的に助けを求められる可能性をあらかじめなくそうとする働きかけだ。

 

「成長」はこれに近いところがある。本人に何らかの苦しみがあり、自分でそれを乗り越えたくて何かするのはいい。しかし、他人に成長しろとか、成長することが人が生きる上での重要事項だ、などと提示するのは、単に自分を煩わさず、都合のいい存在になれという動機が主ではないか。

 

個々が生きるうえで、互いにゆずれないものがあり、相手とのぶつかり合いがある。その対話の結果、お互いが変わり、関係性も変化する。これは自然なことだ。当たり前のことをわざわざ言う必要はないのだけれども、自分の労力や関与を省きたくて人にだけ変化を求めるのは、自分が言うその「成長」を拒否していることであって、その矛盾に無意識な人だけが人に「成長」を求められる。

 

自分の「成長」に憧れる場合があって、その気持ちもわかる。が、そこに今の自分の惨めさとか弱さとか直視したくないものをみないという抑圧がかかっているとき、表情は緊張でぎりぎりしている。そして抑圧が動機である間はイメージされるその「成長」は決して達成できない。あるものはある。そのうえで、苦しみに対してアプローチしていくときに苦しみ続けるその状況から脱せられる。そのアプローチは、あとから振り返れば弔いのようなかたちになっているだろう。

 

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奈良の春日大社に行ったとき、罪の語源がつつみ(包み)であるようなことが書かれていた。既に自然や世界との関係性があるのに、それをつつみによって、遮断してしまう疎外状況が罪であるということだったと思う。

自然や世界との関係性とつながっている本来の状態であれば、文字通り自然と必要な変化はおこっていく。遮断されることによる本来の状態からの疎外状況、停滞状況が回避されるべきものなのだ。よって、遮断するものを取り除けばそれでいい。本来の状態に回復すればいいという考え方と、今の状態を憎み否定するという考え方は全く違う。

「成長」が問題なのは、一つは前提条件としてそれが達成できる人が限られていることだ。しかし、生は時にその「成長」が前提している範囲におさまらずいびつで、救いようがない。加えて「成長」は強い憧れや興奮をカンフル剤のように引き起こす。カンフル剤に対しては、慎重に距離をとったほうがいいと思う。気づかず無視、抑圧に使うからだ。その抑圧が結局は停滞状況を長引かせる。

今ある疎外状況において、苦しみにおいて、何が「詰まり」なのか。何が状況を停滞させているのか。色んなアプローチを用い、ただその「詰まり」をとっていけばいい。「成長」しなくてはととらえる必要はない。生は途中から収束に向かうのだから。その状況、その状況にある「詰まり」をとっていく。それでいい。詰まりがあって、それが取り除かれていく。それ以外のことが現実におこっているだろうか?