降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

雪を踏みながら

朝から雪が降っていた。珍しく日中も降り続ける。

夜勤帰りで、叡山電車から駐輪場まで歩いていく。靴が底から浸みるので、足も冷たい。

 

しかめっ面で寒いなと 思いながら周りをみていると、ふと気持ちがあがっていた。ここのみんなが同じ目にあってるんだなあと。今日のこの阿呆らしい寒さに。なるほど、寒いな、寒いね、とか人が言うのは一緒だねと言いあってるんだなあと思った。

 

夏の暑いときに暑いねというのも根は同じだけれど、寒さを共にしているほうが気持ちが入る気がする。寒さのほうが生命にとって厳しいからかなと思う。

 


そして蟲師の錆の鳴く聲という回の話しを思い出していた。僕が1番好きな回だ。人に取り付く錆(さび)の蟲がいて、娘が声を出すとその周囲の人間に錆が集まり、肢体を不自由にする。娘はそれを知っているので10年間しゃべっていない。でも村人には何となく娘が原因だと思われており、冷たくされている。彼女の両親も錆のせいで働けなくなっている。

 

辛いだろうな、自分が原因となった村人の苦しみを日々見ながら、また村人に冷たくされながら、なぜそれでも生きていけるのだろう、と思った。なんとなくずっと考えていた。自分なりに腑に落ちたところは、生きることを自分のものと考えてないからじゃないかというところ。生は与えられるもの。それがなぜ与えられたのか、それは人間が判断できることではないと捉えているからではと。 


誰もなぜ生きているのかわからない。この世界にいきなり放り出されてわけもわからず生きている。意味というのは、その一方的な放り出しを埋め合わせるためにつくられたのかと思う。その一方で、人は意味から解放されたいと思っている。意味の世界にとりこまれると、自分自身も有用性のもとでしか捉えることができなくなるから。むしろ苦しみは意味の世界の苦しみのほうが多いのかもしれない。

 

 

『希望の牧場』という最近買った絵本のくだりを思い出していた。この絵本は、福島の原発の近くで牛を育てている牛飼いの方のお話し。被曝した牛はもう売れない。そして行政も殺処分するように指示してくる。しかし、彼は牛たちに餌をやり、生かしていくことを決めた。

 

希望の牧場 (いのちのえほん23)

希望の牧場 (いのちのえほん23)

 

 

売れない牛を生かしつづける。

意味がないかな。バカみたいかな。

いっぱい考えたよ。

「オレ、牛飼いだからさ」

あたりまえみたいにいいながら、

そのあたりまえのことを、

まいにち、いっしょうけんめい、勝ちとってる。

 

 

明日の見えないなかで、彼は毎日餌を求めせっつく牛たちにこたえる。

 

 

オレたちはせっせと働いて、牛たちはせっせとエサを食う。

エサ食って、クソたれて、エサ食って、クソたれてーーー

なんど見たって、それだけだ

でも、それ見てるときがいちばん、ほっとする。

 

ほっとする。

生きているのは、ほっとするためなのかと考えてみる。するとそのようにも思えてくる。深くほっとするために生きている。いや、深くほっとするためなら生きられるといったほうがいいのかもしれない。ほっとする前にあるのはギリギリとした針金で締め付けてくるような緊張であって、苦しみであるのだろうと思う。

 

生きものはどれだけ放っておかれた存在だろう。どこまでも放っておかれている。知らない場所の知らない秩序のもと、知らない体を引き受けて生きていく。

 

苦しみとそこからの解放の喜びの振れ幅は、上下ぴったり同じなのではないかと思う。苦しんだ分だけ喜びが深い。しかし、それだけの話しといえばそれだけの話しなのではないかなと思う。