降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

11/16 路上で出会う”彼女”の話〜若年女性の居場所と性暴力〜

仁藤夢乃さんの講演を聞きに。

 

もともと本を読まない人間だけれど、最近ますますお勉強(してないけど)のために本を読む感じのことができなくなっていると感じる。しかし、仁藤さんの話しは身体的に迫ってくる。お勉強感はない。

 

 

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女性が性暴力にあった際は、女性側の(自分の身を守る)責任が直ちに声高にさけばれ、抑圧される。

 

 

家で虐待されていて家に帰れなくても、どんなに寒くても、お腹が空いていても、男についていってはダメ、襲われたら死ぬ覚悟で激しく抵抗しないと抵抗とは認められない、というようなことが中高生にさえ言われる。

 

16歳の女性が売春を行ったとして逮捕されたけれど、女性が勧誘すると罪になるのに、男性が勧誘しても罪にならないという指摘もあった。

 

性暴力を抑圧する言説には恨みがはいっているような感じがする。

 

また自立主義とでもいえばいいのか、非難されない人であるためには、他人の暴力の行使をさせない力を持っていなければならず、自分の状況に対応する能力にあわせて、暴力を自分に身に及ぼさない判断と行動をする義務があり、そうでなければ本人に落ち度があるとするマッチョな規範を自他に課す態度がある。

 

マイノリティ性をもつとは、一つには人間として尊厳をもって応答される条件にみたないという括りに入れられることであると思う。「一人前」とされる価値はあらかじめ与えられているのではなくて、その社会において有用だと認められる価値における競りあいに勝利したうえで与えらえる。

 

残念なことに、そのような人間の価値の認定が世間は大好きであって、稼げる人と稼げない人、迷惑をかける人とかけない人、空気を読める人と読めない人、コミュ力のある人とない人など、自分たちより一段下の「人間以前」を作りたがる。(「人間」は尊厳をもって応答される存在であるので、馬鹿にされ蔑まれるということだけで、その人たちは人間扱いされていないと十分に言えると考える。)

 

問題が根深いのは、そのように尊厳をもって応答される存在でないとされた人は、それによって下げられた価値をあげて、周りから尊厳をもって応答される「人間」に到達するために、厳しい規範を自分に課すようになることだ。

 

その規範は、自分だけでなく周りにも適用され、自分の基準をみたしていない人は、人間以前(尊厳をもって応答されるに値しない・なにがしかの義務を負わなければならない)として認識される。そして「人間以前」にされた人が周りに「人間以前」を再生産していく負の循環が生まれる。

 

「迷惑をかけない」ということが人をまともに応答されるべき存在にする価値であると考えている人は、その人の基準において「迷惑をかけている人」がのうのうと存在して、自分と同じ扱いを受けられることが心理的に許せない。

 

さて、そう考えると、他人に強い抑圧をする人は、既に強い抑圧を内在化させている。強い抑圧を内在化させているということは、その人は既に社会からいちじるしく尊厳を奪われているということになる。

 

苛烈な抑圧をする人は、自分自身にもその価値基準を敷いている。敷くというと、選択できるようなものに思うかもしれないけれど、選択以前にそれがそうだと絶対化されており、むしろ自分はその価値観に圧倒され、支配されている。だからこそフレイレは、抑圧者にも解放が必要だという。(フレイレは、無力さこそが抑圧を解放するのに必要なものだとも指摘している。)

 

強い抑圧を内面化している人は、自身に対して達成されるべき高い基準を課している。そして価値の基準において、「人間以前」の存在を生産している。国籍、人種、特定地域、性別などに対する差別は、何の中身も伴わずに、非常に手っ取りばやく自分を「人間」や「普通」に格上げする手段になる。

 

生まれたところや遺伝など、どうしようもない属性をもって、人間であるのかそれ以下なのかの基準にしてしまう性急さは、その人が自分の中身に何の価値も感じておらず、既に危機的であることを示していると思う。

 

抑圧をもった人にとって、自分を「人間」にしている「人間以前」の存在が、自分たちはそのままで人間であると主張することは、自分が人間である根拠を奪われることであり、同時に自分が正しいと信じている(実際は支配されているだけなのだけど。)価値観が否定され、侮辱されたと感じられる。

 

性暴力を受けた人たちに対する厳しすぎる基準の押しつけの背景には、まず社会から「人間」」に足らぬものとされ、多くを奪われた人たちが、手っ取り早く自分を「人間」にするために自分よりさらに「人間以前」の存在を再生産し、その存在に依存しているということがあると思う。

 

それはここでは、男性に対して劣るものとしての女性という、性差別への依存だ。この依存の手っ取り早さは、この差別が多くの人に取り入れられる要因になっているだろうと思う。

 

そして「人間以前」の存在に「自分たちも人間だ」と声をあげられることは、自分が人間であるために依存していた根拠を否定されることであり、侮辱されたと感じる。自分たちが女性より優れているから「人間」であるというその幻想を打ち砕く。

性暴力を受けた人が声を上げることに対する、強く、陰湿で、執拗な攻撃は、侮辱に対する復讐という動機もあるのだろうと思う。やっと「人間」になった自分を再度、「人間以前」にしようとするものを許せない。恨みにみちているように感じるのは、一つはそこがあるのかなと思う。

またモテ、非モテ的な、性的な魅力の多寡こそが「人間」と「人間以前」を分けるものであるとするところで、抑圧された側は性被害の訴えは、自分に性的魅力があることの遠回しのアピールとして曲解されるのも恨みが感じられる要素なのかもしれない。

自分で全て責任を持て、というような過度な自立主義の強制も裏返せば、自分は(実際は)状況に対して奴隷みたいに我慢しているのだけれど、その状況を主体的に価値あるものとして選んでいるというすり替えの欺瞞が露わになるような恐怖があり、その欺瞞を見ないためにされているようにも思う。

底では惨めさを感じているのに、自分は重要な価値を生きている主体であると信じ込もうとする欺瞞。声を上げる「被害者」は努力をしないフリーライダーであり、同時に目を背けている自分の欺瞞の告発者でもある。だから求めることは「黙れ」になるだろう。

まとまりなく。