降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

<9/14 話しの場のフィードバック>

昨日体験した話しの場のフィードバックをこちらにも転載します。

 

発言:話した内容を忘れてしまった場の雰囲気が一番よかったかもしれない

コメント:身体教育研究所(野口整体の前衛的部門)の野口裕之さんが語っていたことを思いだしましたが、記憶に残るというのは異物として残るのであり、それが消えるのが一番いいと。例として、ものすごく美味しいラーメンを食べて忘れられないよりも、食べたことを含めて忘れてしまうラーメンのほうがいいのだ、と。

精神にとって、生きていくことは、取り込んでしまった異物(異化されたもの)を忘れて(同化して)いくことなのだ、という考え方です。

ものすごく記憶に残る、覚えてしまうというのは、多分自分の消化(同化)すべき異物のコアの部分とつながっているので、それを忘れる作業をするために意識に強くあがるのではないかと思うのです。こだわりが生まれるのは内奥のこだわりを根本的に消すため、という感じなのかもしれません。

 

テーマ:自分が話しの場をやることにともなう疲弊と応答について

コメント:ただ単に負担軽減、敷居の引き下げをすれば持続的になるのではなく、何かをやるということはエネルギーを使うことですから、使ったエネルギーに相応するものが返ってこなければ疲弊が蓄積していくわけです。手を1日5回肩の上のあげることだって、簡単なことですが、目標立てて毎日あげようとして、あげれるかもしれませんが、意味がなければ負担ですよね。あげなければと目標を立てていること自体が負担になり、疲弊を呼んでいくわけです。1日1回にしたとしても、返ってくるものがなければ精神にはそれを覚えていること自体が負担です。

何をやりたいかが曖昧な状況があり、しかし何かやりたいというプロセスがあるとき、そのプロセスが呼んでいること自体を確かめていく場の設定をこしらえればいいのであり、それがプロセスが動いていくための工夫ということになると思います。

 

テーマ:「持続性」について
コメント:単に続けることがいいというわけではないように思います。持続していこうとするときに、もし疲弊が蓄積するような、プロセスに応答しないあり方だと破綻するので、続けていこうとすれば、否応無く動いている実際のプロセスに応答することに迫られてくると思います。それは向き合いとも言えるでしょう。

 

プロセス、動いているものに応答しない欺瞞を直視せざるを得なくなるという意味で、続けるということを課すということなら理解できます。一方で、これは違うなと思ったら、続けてやるよりさっと解散して新しく立て直すことも必要だと思います。「続ける」と目標を決めることも、その目的自体が何かの手段としてあるときに健全なのであり、手段であることを失い、手段が目的化するとき、本末転倒がおこり、手段に支配されはじめます。

 

平和を目的化して、実際にある葛藤を抑圧する、なかったことにする、ただ我慢させておくといったようなこともそうだと思います。それは結果として平和に反する、いびつな信念と反動を形成するでしょう。

 

持続可能というとき、それは今のものが減らない、変わらないようにするということではないのです。今のものが更新され、そのことによって新しいエネルギーが獲得されるという新陳代謝があるときに、持続可能なのだと思います。

 

今の状態から新陳代謝なく、ただ我慢する、自分自身の価値観の更新なく頑張るという考えは根本的な誤りを持っています。新陳代謝とはエネルギーを獲得し変化していくあり方です。よってどんな正論でも、これが正しいのだからみんなこれに従えは、効果がほとんどないのだと思います。

 

根本的な変容を求めるなら、個々人の内面の価値観が更新されていくこと、そして個々人が自分の内面の価値観を更新していくあり方をそれぞれに知っていくこと、そのための変容の舞台を用意することが欠かせないと思います。

 

一斉に情報を与えることでは不十分なのだと思います。何が必要なのか。それは自分自身が既に知った人として教えたりアドバイスするのではなく、自分自身が変わっていくところにおいて人と関わることだと思います。それがパウロフレイレのいう対話であると思います。