降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

プロセス そして傷を引き受けること

当事者兼研究者や当事者兼支援者のトークイベントへ。

 

変化していく身体に必要なのは海水と淡水がいり混じる汽水域のような場所ではないかと思う。完全に安全な場所は、同時にその人に弾みをつける何かもまた犠牲にしている。かといって戦場のようなこの社会そのままの塩分濃度に晒されるのは堪え難い。

 

空間はあっという間に、一方に均(なら)されやすく、染まりやすい。だから汽水域は、絶え間なく作り出される必要があるのだろうと思う。

 

自分の弱さ、あるいは被害性だけでなく加害性も語るとき、その人自身が変わっていき、同時にその語りを聞いている人たちの気持ちに何かのプロセスがおこる。プロセスとしての「時間」が動く。

 

糸川勉さんは完熟堆肥だけでなく、半分発酵したものと表層の土をほどよく少量混ぜ、作物に土寄せして、嫌気発酵の害を防ぎながら発酵の際に出るエネルギーも利用するやり方を教えてくれた。

 

変化のプロセスが終わった完熟堆肥のような状態をもって、自分が完全に知っていること、話し尽くしたことをまた話すことは退屈だ。そこでは自分にプロセスはおきない。だが自分の中につながり、震えるところで話すとき、そこでおこるプロセスは周りの人にも何かのプロセスをおこしていく。

 

たくさんの乾いた知識を得ても変わらなかったことが、プロセスが動くとき変わっていく。プロセスが動いていくとき、自分の状態は変わっていく。焚き火にくべた木が灰になり、元に戻らないようにかつての状態はゆっくりであれ、確実に終わっていく。

 

自分を完全に切り離した論には空疎さを感じる。逃げるための論。抑圧し、感じないための関心の逸らし。そういうことが自動的におこっていると思う。

 

マジョリティがマイノリティの言をよくあるとか、大したことないとか、直ちに否定してしまうのは自分が揺れる事に対する自動的な拒絶であると思う。ある人の持つマジョリティ性とはその部分において抑圧が完了して無感覚無思考になっている部分だと思う。本人は自分の価値観で自分で選択した自分の意見であり、常識だと思っているのだけど。

 

場で許されがたいことがおこったとき、どうするかという質問があった。出入り禁止にする、という意見もある。一人は自分もそんな許されないことをしたのに許してもらえた、よくもこんなことをしたなと相手に思いながらしかし自分も許してもらった、とその葛藤に苦しみながら発言している場面があった。そんなに葛藤している姿に心が動いた。

 

あれは石牟礼道子さんのいう共悶え、悶え加勢だと思った。誰かが自分のかわりに自分の苦しみを苦しんでくれること。そのことによって、人は救われる。同様に、誰かが自分と同じ苦しみを体験した話しを聞くことで、自分のどこかが回復する。

 

回復には終わりがない。なぜなら変わり続けることが停滞するとき、人は苦しむからだ。何を達成したとしても、変わり続けるプロセスにあらなければ、そこはメリーゴーランドのように同じ景色が毎日やってくる時間の止まった世界だ。

 

メンヘラ、ひきこもり、非モテというアイデンティティを引き受けることの苦しみとその弊害が語られる。精神にとって、アイデンティティを引き受けることは、プロメテウスが岩山にはりつけられて動けないために、毎日オオワシに内臓をついばまれるような屈辱的な拷問だと思っている。

その否定的な言葉を引き受けず(気づかず)にその言葉が指すような状態を通り過ぎることは僕はあり得るのではと思っている。自分が回復しなければいけない劣った存在、惨めな存在だという傷を受け、そのことによってより回復を遅らせずにある状態を経過させることはあり得ると思っている。

 

と同時に、傷を引き受けた人は同じ思いをした他の人の苦しみを引き受ける存在になるのであり、そしてその余計に受けた傷からの根源的回復に向かう存在になる。その人は、傷が軽かったゆえに自分を深く回復させることもできなかった人の代わりに、自分を深く回復させ、世界を少し回復させる。