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ここという閉塞から逸脱していくための考察

6/18 南区DIY研究室読書会発表原稿 奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』第13章

次回DIY読書会は7月2日(火)19:45〜、ちいさな学校鞍馬口です。

 


奥野克己

『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』 

概要:ボルネオの狩猟採集民プナン(西プナン)はマレーシア・サラクワ州政府に属し、自動車などの近代的な道具に触れながらも、狩猟採集をベースとした自分たちの文化を維持していた。彼らの子どもは学校も行きたくなければ行かない。結婚はパートナーがいる状態をさすだけで、次々と別のパートナーに変わることも珍しくない。子どもは実子と養子が入り混じる場合が多い。プナンでは、ありがとうに該当する言葉はなく、また反省するという概念がない。

 

◆今回の発表 第13章 倫理以前、最古の明敏
ニーチェの言葉から筆者は「最古の明敏」という言葉を抜き出し、それがプナンにあるのではと投げかける。最古の明敏とは、人間が値段をつけたり、価値を見積もったり、等価物を考え出す、交換するといったことが人類の原初の思考であり、神への感謝(↔︎プナンは感謝しない。)という「倫理」の発生以前の状態にあるのではという。

 

ニーチェの言葉
値段をつける、価値を見積もる、等価物を考え出す、交換するーとこれら一連のことは、ある意味ではそれが思考そのものであるといってもよいほどにまで、人間の原初の思考を先行していた。ここで最古の種類の明敏が育て上げられたのである。 フリードリッヒ・ニーチェ道徳の系譜

(↑なぜその思考を明敏というのかがわからない・・。明敏とは利に聡い思考という意味なのだろうか? あるいは明敏かどうかという語句は重要ではなく、単にプナンが感謝を伴う「倫理」以前の状態だということを言っているだけなのだろうか?)

 

・プナンは雷と洪水を恐れる。ものを持たないので火事はさして恐れない。筆者が滞在中に大きな洪水や様相が現れると数人の女たちは小屋の外に向かい、声をはりあげて祈りの言葉を唱えた。

 →女たちの祈り
うなりを上げ、稲光を放つ 人を石にする雷がやって来た、大地を壊し、大地を台無しにするあなたよ、どうか退いておくれ、わたしたちにそう約束しておくれ

 

・雷や洪水は人間の「まちがった振る舞い」(ポニャラ)に対する「雷のカミ(balei Gau)」憤りであるとされる。まちがった振る舞いとは人が野生動物を苛んだり、動物に対して非礼なことをしたことに帰せられる。野生の動物は狩られた後に名前を呼ばれない。どうしても呼ぶ時は忌み名が用いられる(←プナンは人間の死者に対しても同様に生前の名前を呼ばない)。本当の名前や、家畜の名前をもってそれを呼ぶことは非礼であり、あってはならない。他に(家畜である)犬が糞便をするのを笑ったり、交尾をするのをはやし立てたり、川の魚を獲りすぎたりすることなども含まれる。狩猟の際、リーダーは生きたまま持ち帰った獲物に対して何も言うな、何もするなと、人々に命じた。

 

マレー半島および東インドネシア一帯で天候の激変をめぐる観念と実践は「雷複合(thiunder complex) 」と呼びならわされる。雷複合とはある違反、とりわけ動物に対する違反行為が天候の異変をもたらすという考えと、その考えに基づく行動の体系の複合である。ロドニー・ニーダムは、マレー半島のセマンの人々とボルネオのプナンの間でほぼ同じような信仰の体系があることを報告した。

 

・子どもたちは動物を弄ぶようなことをしがちであり、筆者はだからこそ「してはいけない」と言う禁忌があるように思えると述べる。間違いがおこるのを避けるために、狩猟した動物はなるべく素早く解体し、料理し、食べられる。

 

・筆者の観察では、プナンは獲物に対して「感謝」せず、食べものがありがたいものであるという意識がどこにも見当たらない。一方、日本各地の畜産工場や動物園などにはしばしば獣魂碑や慰霊塔などの石碑が建てられている。筆者は、プナンがそのような感謝を表明しないことこそ、プナンの倫理、あるいは倫理に限りなく近いものなのではないかと考える。

 

・筆者は、プナンが原初の段階では、森や川から取ってきたものを黙々と消費するだけだったのが、獲物がとれたりとれなかったりすることからそれを納得する何がしかの理由を必要とし、その理由として禁忌が作られたのではないかと想像する。
(↑プナンは動物に非礼を働けば洪水と雷がおこるという雷複合に対して禁忌をもっているが、プナンの禁忌が獲物が捕れたり捕れなかったりに対しての感覚とも通じているという言及は本の文章にはない。筆者はこのように論じていいのだろうか。)

 

・筆者は哲学者の前田英樹の論から、倫理は共同体のなかに生き残るための知性によって生み出されているが、それを人間に生み出させる圧力は自然だったと述べる。マルク・キルシュ編『倫理は自然の中に根拠をもつか』においても、生物がその生存の様式を生き残りと適応を確保するために組織したものが倫理であると述べた部分がある。

 

中沢新一は、狩猟採集時代に人は堅固な財産をもっておらず、恵みは全て森の神からのものだったのであり、人間が自然に対していつも礼儀深く、感謝の気持ちをおこたらなければ森の神は贈与を続けてくれるという思考が倫理を発生させたと述べている。また人間が一人で生きていくことのできない、取るに足らない、ちっぽけな存在であることに自ら思い至ることが倫理の発生の基盤としてあるとする。

 

・筆者は中沢を踏まえ、知識や力において圧倒的なもの(神、父母、隣人)への敬念や畏れが倫理が作動する基盤としてあるのではと述べる。しかし筆者はプナンには畏れがあっても、感謝がないことを指摘し、プナンは中沢たちの指摘する倫理以前の状態にあると考える。

 

・グレーバーはニーチェの考えを否定し、ニーチェは人間本性についてのブルジョア的な前提に立っていて、人間を合理的な計算機であると見てしまっているという。グレーバーは計算することや記憶することなど「打算を拒絶する」狩猟採集社会の根源、人間社会の根源の姿をニーチェは見ていないという。

 

・筆者はグレーバーが贈与によって貸し借り計算をして、負債をつうじて互いを奴隷に還元しはじめる世界から遡行して考えなければいけないと指摘することに対して、グレーバーが倫理以前の最古の明敏を考える地点にいるのではないかという。
(↑ニーチェの「最古の明敏」は、グレーバーが指摘するようにブルジョア的な、交換する、値段をつけるという思考のことなのではないか? 話しの筋がわからない・・。 )

 

◆感想
・筆者はニーチェの言葉を各章にいれこむために無理をしていないだろうか? ともあれ、個々の事例は面白かった。前回も書いたけれど、自分には、動物に対する忌み名や死者に対する忌み名、人間に馴らされた家畜に対する態度、そしてグレーバーの打算と記憶を拒絶する狩猟採集社会の態度には通底するものがあると思える。

 

それは聖(人間の所有できないもの・馴らせられないもの・操作してはいけないもの・人間の理屈を敷衍してはいけなもの)と俗(人間が所有できるもの・管理し馴らせられるもの・打算や記憶して一方的に操作する対象とすること)を分けることで、俗、つまり打算が社会を覆い尽くして構造化していくこと、個々人もまた管理操作の対象と認識されるものになることを破綻させるということではないかと思う。

 


 農耕民が神に感謝し、交渉することは、神をコントロールしていることではないかと思える。つまり神は人間に馴らされている。それはプナン的には「聖」ではないのではないだろうか。狩猟採集社会でも獲物をとるための神との交渉の儀式はあるのかもしれないが、プナンは神をコントロールすること(神の所有)を拒否しているのではないだろうか。狩猟採集社会のなかでも、さらに所有の否定水準が高い社会、それがプナンの社会なのではないだろうか。

 


 なぜ神の所有を拒絶するのかというのは、所有(→打算・記憶・管理と近い)が精神を奴隷化していくものであることを本能的に認識しているからではないだろうか。プナン社会において、自然である神を設定することは、俗(打算や記憶)が社会や人の精神を構造化していく必然的な流れを積極的に破綻させる仕組みとして存在しているのではないかと僕には思える。