降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「迷惑」への応答とは、世界への責任を取り戻すこと

川崎の事件への世間の反応を受けた奥田知志さんのフェイスブック投稿が700シェアになったとのこと。

 

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2256821517730593&id=100002083010255

 

 

「迷惑をかけない」という一見道徳のようにもみえることが、実は単なる弱者切り捨てであって、弱者にまわった者には苛烈な攻撃がされるが、15兆円の年金を溶かした政府はさしたる断罪もされない。

 

強いものは何をしようが文句をつぶやかれる程度なのをみると、つまりこの「迷惑をかけない」は道徳のようにみえて保身術であり、処世術なのであることがわかる。

 

 

これを守ることによって、自分の身におよぶ被害は最小限にするのだが、その前提には既存の強いものに従うことが含まれている。自分にもリスクのある改革など求めておらず、既存の仕組みから得られるものを1ミリも減らしたくない。

 

 

だから正しいことであっても、それを壊そうと する人には自分の安穏を壊す人だと被害を感じ、かつ自分は本来の求めを抑圧しているために、そのままの気持ちや妥当な要求をする人に強い嫉妬を感じる。「罰」を与えずにはいられない気持ちになる。

 

 

社会は「迷惑をかけなければ好きにやっていい」と明に暗にメッセージを送ってきた。それはつまり自分がやったことに対してもらえた自分の取り分や時間はびた一文、1秒たりとも人にあげなくていいのですよ、というメッセージだ。

 

 

そのメッセージは人の欲望をかきたてただろうと思う。そしてそれが表面上はうまくいっている間は、他者に寛容なふりもできたのだと思う。

 

 

しかし、自分の取り分を確保することだけに執心させる社会は、人が人として育つ環境を荒廃させていった。

 

僕は考え方として変える必要があるのは、人が意識的であり、善意にもとづき努力すれば環境を良く変えていけるし、社会を正しくしていけるというような素朴な性善説だと思う。

 

それは人間が持つ自己中心性をあまりに軽視していると思う。しかし社会は積極的に騙してきた。そうしたほうが一時的には儲かるからだ。持続可能だった前近代のものではなく、持続不可能な近代的「焼き畑農業」がされてきた。

 

必要なことは、人間が自らの宿業としてもっている、避けることのできない自己中心性に対して、それによる自分と環境の疎外がいかに壊れるデザインを自らに設定できるかということなのではないかと思う。

 

樹木希林さんが自分を壊すものとしての自身のパートナーの存在意義を語ったように、自分の放縦がそれ以上いかず、適度に壊されるということを自分の環境に組み込んで、ようやく人は人として自立しているといえないだろうか。

 

これは言い換えれば、人は自分の自己中心性のために、決して自立できないから、それを壊す他者が必要だということだ。

 

自分を壊すもの、それが「迷惑」以外のなにものでもない。「迷惑」に向き合わないことが、根本的に人を人でなくしていったのであり、それを反転させることが、現在より切迫したことになっていると思う。

 

社会は個人から実は責任を奪ってきた。責任など持たなくていいよとメッセージを送ってきた。自分の経済活動だけちゃんとやってくれれば、カプセルホテルのカプセルのように個々人が自分のことだけに邁進していればいいと。

 

しかしそれは間違いだ。それは世界を荒廃させていく。取り戻す必要のある責任は迷惑をかけないという責任ではなく、世界に対する責任だ。目を閉じ、感じなくできていたこの世界の実質に対する責任だ。「迷惑」に向き合うというかたちでの、自分のカプセルの外に自分が応答していくという責任だ。