降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

力の理屈 なぜ革新的なことや実践的なことが発見されても消えていくのか

いつも稽古に通わせてもらっている身体教育研究所の角南和宏さんが在野研究者の山本義隆さんの著書『磁力と重力の発見』について、ブログに書かれている。

 

dohokids.blogspot.com

 

磁力と重力の発見〈1〉古代・中世

磁力と重力の発見〈1〉古代・中世

 

 

『磁力と重力の発見』の引用部分。

明治前期に上級学校に進んだのはほとんどが士族の子弟で、明治期の技術者はその大半が士族出身者で占められていた。しかし徳川の時代に「士農工商」お身分制ヒエラルキーの最上部にいた士族は、職人や商人の仕事を蔑んでいたのであり、士族に根強かったこのような階級的偏見を払拭するには、工部大学校、のちには帝国大学工科大学で教育されることになる技術を、舶来のものとして箔をつけ、お上のものとして権威づけ、こうして教育される技術者を、技術エリート・技術士官として在来の職人から差別化しなければならなかった。

 

科学動員のかけ声のもとで研究者や技術者は優遇され、戦時下の理工系ブームがもたらされた。理工系の学者は、研究活動上も私生活においても、わが世の春を迎えることになる。前述の宮本武之輔の一九四〇年の「技術国策論」には、「現に理科系統の大学卒業者に対する需要は供給の三倍以上、同じく専門学校卒業者に対する需要は五倍以上に達する状態」とある。

 

先月に宇井純『自主講座「公害原論」の15年』を読んだとき、東大工学部の助手たちが国で規定されている水準の権利を持てず、自立性を持たされず差別されていたこと、そして教授たちが教壇を市民や助手たちに使用されたことにショックを受けていたという記述があった。

 

自主講座「 公害原論」の15年 新装版

自主講座「 公害原論」の15年 新装版

 

 

依田彦三郎(東大工学部助手会)「神聖な教壇を助手・市民の泥靴に汚されたこと、これは教授たちにとって大変なショックだったと思います

 

教壇が神聖? どんな時代かと思ったけれど、1970年とか、戦争も終わった後のほんの50年前の話し。士族たちが身分制を維持する場所として大学を住みかにしていたのだなあと思う。そしてその権力性は受け継がれているのだろう。山本さんは在野だからこそ、大学やアカデミズムの利権団体としての側面を描けるのだと思う。

 

今までに何度も書いてきたことだけれど、僕は心理学科に入り、そして心理カウンセリングが偏重され、前提化されているのに疑問を持った。カウンセリングは対症療法だ。それなのにこの一技法を前提に、社会の歪みを問わず、そしてもっと根本的な別のアプローチを探る思考も感じられなかった。

 

問うべきは大量の自殺者が生まれ、100万人ひきこもりの人たちが自己責任という考えで怠け者や非道徳な人として扱われるような、この社会の歪みなのではないか。また専門家依存ではなく、ピアとして、当事者同士が共に回復していくあり方が模索されるのが妥当ではないのか。

 

心理カウンリングは、他の何よりも有効なアプローチだから今日のように幅をきかせているわけではないと思う。人の回復とは、単に週5日働けなくなったから労働者としてもう一度そこに戻ればいいということではない。実際にカウンセリング偏重やその実際的な効果という面にも疑問をもち、脱心理カウンセリングの模索をはじめた先人たちもいるけれど、その人たちはただちに傍流になり、多くからは相手にされない存在になる。

 

僕はそのように主流からは相手にされないけれど、より実践的であり問題意識の深い探究をしている人たちがいることを知り、自分の知りたいことや考えたいことを深めるためにそういう人たちの周辺に行き、そこでこれだと思える現実の断片をパッチワークをして現れてくるものをみるように、回復とは何か、変化はどのようにおこるのかを探ってきた。

 

古武術研究家の甲野善紀さんのように、実践のなかで学校体育でやられているようなトレーニングより、合理的で実際的なアプローチや学びのあり方が発見されているのに、それらが学校教育における体育を変えるということは何十年たってもおこっていない。

 

なぜ、そうなのか。

 

つまるところ、あるアプローチや思考が妥当なものとして社会に受け取られるためには、そこで力を持っている主流派が認めるということが必要なのだと思う。主流派が認めることは、何か発見されたものや提案されたものが本当に有効かどうか、革新的なものかどうかよりも、もう既に出来上がった自分たちに都合のいい制度に合致するかどうか、つまり自分たちの主導権がより増すかどうかということなのだと思う。

 

学術の「純粋な探究」ではなく、誰が力をもち、業界でイニシアチブを持てるかという主導権争いが実際の世界でおこっていることなのだと思う。たとえそこに属する個々の研究者が良心的であっても、実際の選択の決定権を握っているのはそのシステムを支配している主流派なのであり、主流派は自分の力の拡張を優先している。

 

甲野善紀さんの発見したことが学校で受けいられないのは、旧態依然とした既存の学校制度のあり方自体に疑義をもたらすようなラディカルさを持っているからだと思う。本当に根本的なもの、本当に新しいものなど主流派は欲しくないのであり、自分たちが勢いを増せるような、既存の制度やパラダイムにのっかった「アプリ」が欲しいだけなのだと思う。

 

そしてたとえば製薬会社と個々の医者が自分の勢いを増すために協働したように、お互いの勢力を増すことの結託が社会を動かしているのだろう。医者は製薬会社からの「援助」が欲しく、製薬会社は医者の協力が欲しい。そのような自分たち(だけ)の利益を増すウィンウィンの関係に都合のいいものが「本当のもの・妥当なもの」として選択されるのだと思う。

 

 

だからある人が人の役に立つような革新的なものを発見したり、実践したりしていても、そもそも業界の利益構造を変えるようなことは無視される。システムを支配している主流派は別に表立ってそれらを批判する必要すらないのだと思う。ただ無視すれば、主流でないものは世間であまり相手にされず自然に消えていく。逆にそれが周辺の既存制度や主流派を勢いづけるものであれば、それは積極的に援助され、アイデンティティを確立していく。

 

多分、そういうカラクリなのだと思う。何か新しい発見があっても、権力をもっている主流派がそれをあまり認めなければ、それは10年でも20年でも世間でアイデンティティをもてず、提起されただけにとどまるのだと思う。

 

ならば、本当の納得を得るためには、その主導権争いの場ではなく、自律した環境を用意することが必要なのだと思う。それはゲリラ活動のようなものだと思う。何も保証されないし、助けてくれる人も少ない。でも僕は、こちらのほうがいいと思う。