降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

灰谷健次郎『林先生に伝えたいこと』

等持院の整体の稽古の帰りに寄ったリサイクルショップで売られていた林竹二本。

 

pic.twitter.com

 

以前、『こどものてつがく ケアと幸せのための対話』のなかで書かれていた短い文章、「日本にも「子どもの哲学」はあった!林先生に伝えたいこと」を読んだけれど、そのタイトルもここからとったのかなと思った。

 

灰谷健次郎のこの本は、1991年に出版されたのだけど、亡くなった林竹二に向かって書かれている。林が亡くなったのは1985年なので、亡くなって5、6年後に書かれたということだろう。灰谷自身が亡くなったのは2006年だ。

 

まだ生きている死者に対しておくられた体裁の文章だけれど、僕がこの本の存在を知り、手にとったときには灰谷自身が亡くなっているので、死んだ人から死んだ人へおくられた文章だ。私はどう生きましょうか、時代は、私の今のあり方は、これでいいのでしょうか、と死者にたずねる人が死者だというのは独特な感慨をもってしまう。

 

その感じは、不登校新聞のインタビューが公表されてすぐ亡くなってしまった常野雄次郎さんに対するものと似ている。常野さんは、実際にはインタビュー後に割とすぐに体調が悪くなり亡くなられるのだが、将来自分がどうなるか、という心配をされていた。

 

そんなことはもちろんわからないのだけれど、もうすぐ亡くなられてしまう方が自分の将来の生活が成り立たないことを心配しているということに僕は強い印象を受けた。いつ来るか、本当に来るかわからない将来のために、現在がどれだけ不安にみちたものになることだろう。もしそれがわかっていたら、死に対する覚悟はまた別の話しであるけれど、少なくともその分の重圧からは常野さんは苦しまずに生きられたかもしれないのではないか、と思った。これはもちろん、仮定ばかりで全く成り立たない空想だけれど。

 

tsunelovelove.hatenablog.com

 

人というより、自分に対しても思っていたのだ。あとしばらく生きるつもりで、どうやったら惨めな境遇で死んでいかないように「人生設計」できるのかみたいな、そんな強迫ばかりが頭に浮かんでいるような状態で年月を過ごし、実際はそれと関係なく早く死ぬとき、その間の苦しみは何だったのか、と。

 

死者にとっては、もうこの世がどうなろうが、自分がどうだったのか、なんて関係ないことなのではないかと思うのだ。僕は灰谷健二郎のこの文章に対し、あなたが背負っていたあるべき姿に苦しむだけの意味はあったの?と感じていたのだった。死んだ今になって、もしこの自分が書いたこの文章をみたら、そんなことに苦しんでいてよかったと思うのかな、と。

 

彼は人に対して、社会に対して強い理想があった。そうなるべきだと思っていたと思う。林竹二もそうだと思う。だけれど、その社会は、この資本主義社会のなかで人々が個々のケージに入って孤立し、その狭い空間にいる間だけ王様になるかわりに思考と本来の責任性を奪われ、自分の運命を知らない、誰かのための食用うさぎになっている社会だ。灰谷や林はそこまで意識はしていない。あくまで社会や学校制度の基本的善性を信じた上で彼らの考え方は成り立っている。

 

うさぎの島 (ほるぷ海外秀作絵本)

うさぎの島 (ほるぷ海外秀作絵本)

 

 

彼らは人間がどうなったら人間らしくなるかを追究した。「よくなる」というところにおいて、人間をみたと思う。しかし、それでは足りないと僕は思う。この今の社会の腐敗をみて、幼稚園建設、依存症者回復施設に反対して住民運動をし、「人に迷惑をかけず一人で死ね」とバッシングをおくる普通の人々、無難なことだけに反応し、波風を立てず、抑圧を含んだ既存のシステムにが変わらずにいるままでいれるような、お手本になる優等生をみて大量リツイートする普通の人々の姿をみて思う。林たちは人間の業ともいうべき部分、より深い無秩序性という部分を不問にしていたのだと。「よくする」ことを頑張っていけば、それらはクリアされると思っていたのだと思う。

 

ここは荒野だということを認めずにいること。その認識は抑圧されていたのだと思う。ここは荒野であり、報われず、なお人間として生きるということがどういうことなのか、自分として生きることどういうことなのか。それが問われることなのだと思う。

 

しかし、本は買ってよかったと思う。女子高生コンクリート詰め殺人事件の被告とのやりとりが掲載されている。幾つか抜き書きしたい。

 

小学三年生の村井安子さんの詩「チューインガム一つ」。

この詩は女子高生コンクリート詰め殺人事件の被告、Aに読まれ、Aはそこから自分のあり方を見つめ直しはじめたという。Aは事件当時18歳だった。判決はAに懲役17年を命じている。

 

チューインガム一つ

 

せんせい おこらんとって

せんせい おこらんとってね

わたし ものすごくわるいことした

 

わたし おみせやさんnの

チューインガムとってん

一年生の子とふたりで

チューインガムとってしもてん

すぐ みつかってしもた

きっと かみさんが

おばさんにしらせたんや

わたし ものもいわれへん

からだが おもちゃみたいに

カタカタふるえるねん

 

わたしが一年生の子に

「とり」いうてん

一年生の子が

「あんたもとり」いうたけど

わたしは見つかったらいややから

いややいうた

 

一年生の子がとった

 

でも わたしがわるい

その子の百ばいも千ばいもわるい

わるい

わるい

わるい

わたしがわるい

かあちゃん

みつからへんとおもとったのに

やっぱり すぐ みつかった

あんなこわいおかあちゃんのかお

見たことない

あんなかなしそうなおかあちゃんのかお見たことない

しぬくらいたたかれて

「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」

かあちゃんはなきながら

そないいうねん

 

わたし ひとりで出ていってん

いつでもいくこうえんにいったら

よその国へいったみたいな気がしたよ せんせい

どこかへ いってしまお とおもた

でも なんぼあるいても

どこへもいくとこあらへん

なんぼ かんがえても

あしばっかりふるえて

なんにも かんがえられへん

おそうに うちにかえって

さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん

けど おかあちゃん

わたしのかおを見て ないてばかりいる

わたしは どうして

あんなわるいことしてんやろ

 

もう二日もたっているのに

かあちゃん

まだ さみしそうにないている

せんせい どないしよう

 

 

林 私にはソクラテスから学んだ、教育は反駁と浄化だという考えがあるのですが、あの詩が生まれるプロセスのなかには、そのことの証があるように思うのです。

 

 

 

灰谷 あの子の場合、すぐれた作文をたくさん書くとか、すぐれた詩を書くという子で

も何でもなくて、編み物をひとりでしているのが好きだという、友達も少ない、どっちかというと陰気な子だったんです。

林 可能性というものはそういうものなんでしょう。

 可能性というのはまだ決まった形のないもの、規定される以前の無形のものなんです。ここにこういうものがあるなということがわかったら、可能性じゃないわけです。

 要するにそれがある形をとったときに初めて、あっ、こういうものがあった、ということがわかる。ものすごく深いところに、目のつかないようなところにあるものなんで、これが引き出されたとき、あっ、こんなものがあったんだ、ということになる。それを引き出す努力みたいなものを離れては、可能性は実はないわけです。

 

  

(林)「私の人間の授業を受けて、もっともふかく授業にはいりこみ、集中して学んでいるのは、社会的にもっとも苛酷な条件下で労働し生きることを強いられている部落出身者や在日朝鮮人の子弟であり、そしてほぼこれと重なり合うことだが、学校教育の中では、小学校中学校の生活でもっとも無残な位置に立たされつづけてきた生徒たちである。」

 

 

「チューインガム一つ」という詩のなかに人間の本質的な自己中心性とそれによる疎外が現れていると思う。人間の本質は善だと簡単に決めてしまうことは、見たくないことを見ないようにする動機にもとづいていないだろうか。この社会は見たくないことを見ないようにするかたちで設計された社会ではないだろうか。

 

強く抑圧され、痛みを持っている人たちは、見なくてすむ人たちの代わりに矛盾を引き受ける。その人たちは変わりうると思う。でもそれは少人数であって、大きくなりすぎた社会を変えるには十分でないだろうけれど、荒野のなかで、ちいさく人間が人間である場所を一時的に出現させることは可能なのだと思う。

 

あと灰谷さんの映像があったので貼っておきます。

www2.nhk.or.jp

 

人の苦しみっていうのを自らの苦しみにするという、そういう人間が人間のなかでもっとも素晴らしい人間ではないかと灰谷さんはいう。沖縄の人が人の苦しみを自分のちむぐりさ「肝苦しさ」と表現することも紹介されている。

 

そういえばのび太がしずかと結婚するときに、しずかのお父さんがしずかにのび太は人の喜びを自分の喜びとし、人の苦しみを自分の苦しみとすることができる人間で、それが何よりも人として大事なことなのだ、というシーンがあったように記憶している。

 

ジャイ子のび太と結婚せずに幸せになったのだっただろうか。上の結婚エピソードはいいとして、ジャイ子の扱いやジャイ子より美しく優しく理想的なしずかと結婚することが幸せというマジョリティ意識はどうだったのかは気になる。)

 

人の状態が自分に伝染するのは、これまでにもなんども言及してきたイリイチの躍動性(aliveness)と関わるところ。自分の奥底にある痛みを殻を厚くすることによって抑圧する人は、この状態の伝染がおきにくい。自分の殻を自分だと認識し、殻の能力を価値とする近代の自意識中心主義、人間中心主義と、それ以前のいかにお互いが影響を受けあう状態にするかが重要であり、たぶん倫理であったという話しをまた再確認する。

 

のび太の無能性は、近代的な個人のスペック重視の価値に対する反逆であろうし、本来的に影響を受ける体をもつ彼が近代的な個室(他者の影響を隔絶する壁・牢獄)でそれを発揮できない疎外状態にある(それはこの時代の多くの人たちの状況だ)のをドラえもんの存在が転換する。彼は道具をもって世界に出る。押し入れはもちろん彼岸の世界との境界であり、彼岸からあの世のものがこちらにやってくる入り口であるだろう。