降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

腐敗の進行と大勢への信仰

日本第一党京都市の小学校での演説会をするとのこと。

 

昨日、原発事故で皆が避難するなか、1人捨てられた動物たちを集め、世話をする人の映画をみました。2011年以降、大勢は変わったのかと思うと、変わってないか、むしろ自分の「普通の暮らし」にとどまるため、見たくないことを見ないようにするために抑圧を強めたのかもしれないとも思いました。

 


ナオトひとりっきり予告編

 

大勢が変わらないと社会は変わらない(大勢が変わったら自分も変われる)からできるだけ大勢に効果的にアプローチするやり方を考えるのが良いというのもあるでしょうが、大勢の動員を前提とする仕組みや思考が今ほころびつつもあるのではないかとも思います。

 

大勢がみてくれないと意味がない、認めてくれないと意味がない、ああ、また国や社会は正しくやってくれなかったという思考から抜けて、残ったものにすがろうとするのはやめて、ここは荒野なのだから、自分たちが小さく自分たちに必要なものを作っていくということが求められているのかなと思います。

 

それは一元的なシステムを作るために革命をおこすことではなく、暮らしを二重化して、社会の腐敗が続いても、自分たちが自分たちとして生きられる環境をそれぞれ自前で構成していくことではないかと思います。

 

誰かにお任せできる公共など嘘なのだと思っています。それを嘘だと認めると自分がゼロからやらなければいけない、それが嫌だというのもわかりますが、それぞれが自律的になり、そのうえで協働していくメッシュネットワーク化をすることで、中心だけが権力をもつ仕組みから逸脱していけるのではないでしょうか。

 

人を勇気づけ、閉じる価値観、感じられる世界を更新していくためには、自分が直接世界に働きかけて、その応答をもらうことの繰り返しが必要であるようです。これが良いと言われたことに優等生的にみんなが従順に従うことによって社会が変わるのではなく、個々人が世界と直接に応答関係を持つことでようやく主体が回復していくのだと思います。