降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

2/22ジャンル難民の集まりの報告と、意思と「時間」の関係

ジャンル難民の集まりを行いました。それぞれの探究のテーマは、「時間」、整え、揺らぎ、世を捨てる方法(?!)などでした。

 

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それぞれのテーマの経過状況、あるいは行き詰まり具合をシェアしました。何となくの状態より、はっきりした行き詰まりに行ったほうが進展であるという認識ですので、行き詰まった探究も遠慮なく持ち込みシェアいただければと思っています。

 

6/15日(土)、6/16(日)はこれまで探究してきたテーマをまとめ、発表するジャンル難民学会です。エントリーも絶賛募集中です。

 

僕の発表は、実践的な運用を目的とした意思と「時間」の関係でした。

 

ここ1年ほど通っている整体の稽古から受け取ったことは、意思は体におこっている自律的な動きを停止させるものという理解です。

 

意思によって、直接的、直線的に身体を動かそうとすると、体のつながりが切れ、バランスを失った部分的な硬直におちいり、それは安定もなく、疲弊や負担ももたらします。

 

そこで、意思をもって直接何かをコントロールしようとするのではなく、意思の直接操作を打ち消した状態をつくり、間接的に身体を動かすと自然で安定的な動きが出てきます。

 

この意思の打ち消しは、様々なことに通じます。たとえば、ジャンル難民の集まりでは、探究を趣旨にしています。これがもし「問題解決」として、直接的に既にわかっている目的に向かおうとすると行き詰まります。探究は、ただそこにある自分の知らない構造を明らかにしていく営みです。間接的なほうが上手くいきます。

 

オープン・ダイアローグにおいて、対話が目的であり、治癒は副産物であると言われますが、同じ理屈だと捉えています。直接的にその達成状態に向かおうとすることは、単なる意思による抑圧なので、反動こそあれ、状態に本質的な変容がおきていかないのだと考えています。

 

何かを変えようとする時、意思で直接に対象を操作しようとせず、意思は対象と関わりのある第三のものに向けながら、間接的な操作をするというのが、意思の打ち消し方の一つの方法だと思います。

 

またもう一つは、意思をたとえばコンピュータにおけるRAMのようなものと考え、RAMの容量を使い切るというやり方があるようです。たとえば、考えることができないほど、何かを感じようとしたり、作業に集中するということです。

 

これによって、独特の意識状態になることに気づくでしょう。整体の稽古では、手を動かす時も一つ前の状態の残像を意識し、まるで元の場所から手が動いてない意識で、手を動かすということをしました。

 

それもRAMの使い切りかなと思いました。RAMがある状態だと、身体は自動的に意思の支配にあり、強制停止された状態にあります。しかし、意思のリソースがなくなる状態にすると、体の自律性は意思の強制停止から解放され、自律的で自然な動きがおきてきます。

 

インプロのワークショップなどでも、ウォームアップなどで、意思の使い切りや意思が働きにくい状態を作っていくワークをすると思います。自律的なものが動きだすためには、意思による自動的な強制停止状態を宙づりにする必要があるのだと思います。

 

意思による直接操作は、自律的に動き続け、変容しようとしているプロセスを止めます。意思によって、直接的に対象を操作しようとすると粗雑で暴力的なアプローチにもなります。意思は、意思を打ち消すために使用します。意思は実のところ動かすより止める働きがあるので、その意思を打ち消すように意思を使うのです。

 

止めるのを止めるということです。アルコールは抑制する脳の働きを抑制するため、解放に向かうといったようなことと似ているかもしれません。

 

意思はプロセスである「時間」を止めます。よって、「時間」を動かすためには、意思を宙づりにしたり、使い切ったりして働かなくさせることが必要であるようです。