降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

世界の受容器 100年もつぬか床と心のひだ

伊藤亜紗さんとドミニクチェンさん、橋田朋子さんの対談の記事を読みました。

 

unleashmag.com

 

伊藤亜紗さんが米国で参加したシンポジウムにおいて、障害当事者に対して、義足や人間の能力を超えるような目覚ましいデバイスを提供することは、その人の蓄積してきた「時間の厚み」を否定してしまうことになるのではないかという指摘がでていたそうです。

ここで伊藤さんの対談者であるドミニクさんも、自分の吃音を完全になおす薬ができても飲まないんじゃないか、といいます。

 

ぬか床のたとえがでました。ぬか床は単によい菌をキープすればいいのではなく、100年もつようなぬか床では、よい菌が優勢になった後、また悪い菌が優勢になり、またよい菌が形勢逆転するような過程をえて、多様な菌が安定してすむ環境になるとのことでした。

 

たとえば、このぬか床を人間の感性と見立ててみたいと思います。多様な菌が複雑な味をつくるように、苦しみと苦しみへの向き合いとして現れる生の対話、その終わりのないせめぎあいが、人間の感性を、100年もつぬか床に、つまり複雑化した感性のひだを形勢していくように僕には思えます。

 

僕は、人間にとって生きることの価値であり、同時に人間の救いとなるものは、成長や達成ではなく、能力の高さでもなく、生きていること自体によって、苦しみとそれに反発し生きようとする生の対話が形成する、複雑化した心のひだにあるのではないかと思っています。

 

自分がまさに苦しんできたその場所が、これからの生をおくるにあたって、様々な経験を最も繊細に、複雑に感じられる自分のこころの経験の受容器となるのではないでしょうか。

 

それは、自分の意思だけで成り立つものではありません。競争できるようなものでもありません。ある人には別の人にはない心のひだがあり、そのひだにはその人が生きてきた経験がそのまま残っていて感じとられます。

 

ドミニクさんが吃音がなおる薬を飲まないというとき、それはそれまで形成されてきた心のひだの、それ以上の形成がなくなることはしたくないということなのではないかと思います。

 

それは、もうこれ以上に複雑化した味わい(=心の経験)を持っていくことをやめるということであり、さらにはひだとして残っている自分そのものをリセットして、ゼロからまたひだを作っていくようなことになるのではないでしょうか。

 

苦しみはなくなるけれど、ひだがなくなり、つんつるてんのところで感じられる味わいで今後を生きていくのか、それとも今まで形成されてきたひだをこれからも保持し、さらなる複雑化に自分をひらきながら生きていくことの違いかと思います。

 

複雑化したひだにおける感性は、自然と自分の殻に包まれて疎外されてしまう業をもった人間を揺り動かし、人間としての回復の契機を与えるようなものであると思います。また、世界のどこかにいる一人の誰かに休息を与え、生きることを受けとめるようなやさしさになるものだと思います。