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ここという閉塞から逸脱していくための考察

奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』三章まで 南区DIY研究室 発表原稿

今日の南区DIY読書会で表題の本を3章まで要約して発表しました。

ブログを書いてきて5年目、最も長いタイトルになった気がします。

 

 

 

 

 

概要:ボルネオの狩猟採集民プナン(西プナン)はマレーシア・サラクワ州政府に属し、自動車などの近代的な道具に触れながらも、狩猟採集をベースとした自分たちの文化を維持していた。彼らの子どもは学校も行きたくなければ行かない。結婚はパートナーがいる状態をさすだけで、次々と別のパートナーに変わることも珍しくない。子どもは実子と養子が入り混じる場合が多い。プナンでは、ありがとうに該当する言葉はなく、また反省するという概念がない。



筆者:奥野克己

文化人類学者。立教大学異文化コミュニケーション学部教授。商社勤務を経てインドネシアを放浪後に文化人類学を専攻。著書に『「精霊の仕業」と「人の仕業」―ボルネオ島カリス社会における災い解釈と対処法」「人と動物の人類学」(共編著)「動物殺しの民族誌」(共編)など。1962年生。※僕が行っていた京都文教大学の教員もされていた。当時は交流はほぼなかった。

 

◆フィールドワークの期間

 2006年4月から1年間。その後、毎年春夏の2回のペースでプナン居住地に訪問。プナンと行動したのは通算で600日ぐらい。

◆プナンの概要

 マレーシア・サラクワ州を流れるブラガ川上流域の熱帯雨林におよそ500人の規模で暮らしている。プナンはサラクワ州政府から割り当てられた定住地に建ててもらった家屋に住み、焼畑農業にも従事して米をつくっていると共に、しょっちゅう森にはいって、一時しのぎのキャンプを建て、そこを拠点として森のなかに狩りに出かけるという半定住型の生活をしている。またプナンは森林を開発する企業からの賠償金を定期的にもらっている。

 

◆プナンの半定住生活シーン

朝起きて食べ物が何もない。まずは川に投網に出かけ、魚を食べて腹ごしらえだ。本格的に狩猟にいくのはその後にしよう。

 

焼畑で米を栽培し、森の中でサゴ澱粉を調達しなくなった今日でも、市販のサゴ澱粉はプナンの好む主食である。皆で車座になってアメ状のサゴ澱粉を箸でくるくると巻き上げ、それを汁物に浸してから口に運ぶ。

 

ブラガ川上流の森は、商業目的で伐採され丸裸にされた後に、油ヤシが植えられ、今では油ヤシプランテーションが広がっている。油ヤシの実を食べに夜にヒゲイノシシがやって来る。それを狙って、プナンは夜の待ち伏せ猟にはげむ。

 

油ヤシプランテーションの中には企業が建てた仮小屋が散在する。それが空いていればプナンは狩猟のベースキャンプとして一時的に「占拠」する。予め断りを入れている場合もあるが、たいていは持ち主が立ち寄った時に獲物肉などを分け与えて済ませる。

 

◇1章 生きるために食べる 2章 朝の屁祭り

 プナンは「〇〇のために生きる」という言い方をしない。何かになろうとする「自己実現」のようなこともない。

 

食べ物を手に入れたら調理して食べて、あとはぶらぶらと過ごしている。男たちは獲物を取るために朝から森に入っていく。手ぶらで帰ってくることもよくあるが、手に入れた獲物はキャンプや居住地の人々全員で均等に分けられる。

 

 プナンはサラクワ州に用意されたトイレを使わず、定住地やキャンプから少しだけ離れた場所に「糞場」で用を足す。排便後は木の枝切れでお尻の汚れをとる。人々は他人の糞の状態をみて、それを論評したりする。あるプナンの親子は、閉ざされた空間で用を足すこと、そして誰かが一度使用した場所を自分が使うことに拒否感があったとのこと。赤ん坊におしめはなく、便を垂れ流すと母親は特定の飼い犬を呼び寄せて肛門を舐めさせて済ませる。少し大きくなると、高床式の家や小屋の木の板の隙間から用を足し、母親が水で流したり布でふき取ったりする。プナンの朝は、目覚めた人の放屁ではじまる。人々は自分や他人の放屁も論評する。

 

◇3章 反省しないで生きる

 プナンは「反省」のようなことをしない。著者が町で買ってきたバイクを彼らに貸すと、タイヤをパンクさせても何も言わずそのまま返してくる。タイヤに空気を入れるポンプを貸すとトレーラーに轢かれてペチャンコになっても、何も言わず返してくる。プナンは「過失」に対して謝罪もしなければ、「反省」もしない。酒を買う金のために他人の所有物を盗んで売る(チェーンソーの刃、銃弾、現金など)男は、妻や家族が咎めると輪をかけて泥酔するようになった。彼はやってはいけないという自覚があるのかどうかも著者は判別できず、反省している素ぶりが見当たらないという。プナン語には反省するという内容の言葉はない。共同体の話し合いは、個々人が盗まれないように気をつけようという結論づけた。

 

 ある時、共同体のリーダーが木材伐採企業からの賠償金を前借りして、それを頭金として車を買い、狩りを効率化しようとした。しかし得た金を使い込むものがいて、それを咎め立てる動きはなく、計画は破綻し、車は手放された。狩猟や用事で出かけたりする時の失敗や不首尾、過失についてもプナンは個人に責任を求めたり、個人的に反省を強いるようなことはしない。失敗は、場所や時間、道具、人材などについての共同体や集団の方向付けの問題として取り扱われることが多い。

 

 筆者によると、プナン社会には、自死や精神的ストレスが見当たらない。プナンは反省しない、と筆者には思われる。筆者は、プナンがプナン同士では出来事を悔いたり、やり方について思い悩んだりするというやり取りをしないとみている。ある出来事や間違いが残念んであったと、悔やんでいると述べるようなことは、たまにあるようだが、プナンが「〜しなければならない」、「しなければならなかった(ateklan)」という言い方をすることは実際にはほとんどないと筆者は述べている。筆者は、プナンは「状況主義」であり、過度に状況判断的的であるという。その時々に起きている事柄を参照点として行動を決めるということを常としている。またより良き未来を描いてそのために何かをするようなことがなく、生活は「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている。

 

感想: 今日の読書会は「ウンコの話しが一番面白かった」と声がでるほど、ウンコの話しがたくさん出ました。多摩川で野宿している人たちはウンコロードと名付けた道の脇にトイレをしていて、そこを通る時は人のものが気になり、その後も論評していたとか。その他、建築の話しから、欲望形成支援の話しなど。内山節の『時間についての十二章』を紹介していただいてたので今度読んでみようと思います。

 

おそらく時間というのは、昔は複数あって、個別的であり、実態として存在するプロセスと一致していたのだろうと思います。陰暦が植物の生長のプロセスと一致していたように。個別具体的でない、普遍的な時間というものが生まれた時、時間はプロセスと切り離され 、空虚な、ただ計測できるだけの何のプロセスも伴わない時間が生まれたのだろうなと思います。

 

効率化のために、それぞれの人のプロセスは違うのに、たくさんの人を集め、90分一斉授業みたいな、一律にさせる発想がただの刻みでしかない時間の典型的な例だろうなと思いました。

 

 

 

 

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