降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

時間を動かすとはどういうことか ジャンル難民学会ミーティングの二つ目の質問

先の金曜日にジャンル難民学会(仮)発足ミーティングを行いました。15名ほどが来てくれました。要請があれば別の場所でも行いますのでお声がけください。

 

ミーティングでは、2つの質問をしました。それぞれの人がどのような探究をしているのか。そしてその探究が進むために必要なものは何か、です。

 

 

このプロジェクトは、実は探究を趣旨としています。ジャンル難民とは、探究のための環境に出会えない、環境難民なのだと考えています。

 

 

しかし、誰もがみんな探究などをしているわけではないと思うかもしれません。ですが、まずは、そこからもう一度確認してもらいたいです。自分が生きてきたなかで、なぜか関心があること、やりたいと思っていること、もし知れるなら知りたいと思っていること、体が勝手に動くことがあると思います。

 

 

自分が探究と思っていなくても気になること、引き寄せられることは、確認して応答していくと、やがて一つのテーマのようになっていきます。鶴見俊輔ならそれを「親問題(現実の親の話しではなく、自分にとっての根源的な問い)」というのではないかと思います。

 

 

探究することでお金が入ってきたり、人間関係が有利になったりはあまりしないのですが、探究はこの自分が生きていることの意味、人から与えられるものではない深い納得を引き寄せてきます。

 

 

精神に溜まったガスが抜けていくような実感があり、そして古いものがなくなった後には新しいものがやってきます。別に研究の発表みたいなかたちでなくても、何かを探究しながら活動して、自分の既知の知見を塗りかえるものを発見するのでもそういう感じになります。

 

 

そうなるためにはどうしたらいいのでしょうか。どこかに行こうとしているのに、ぐるぐると同じところをまわっているだけのような閉塞を終わらせるには、何をどのように工夫すればいいのでしょうか。

 

 

次のように考えればいいと思います。
自分のなかに「止まっている時間」があるという目で自分をみてみます。そして、その「止まっている時間」が動いていくには何が必要だろう、どんな環境設定が必要だろうと考えて、時間が動くことをやるのです。

 

 

自分を焚き火のようにとらえてみます。焚き火は、薪をくべても放っておくと真ん中だけが燃えて、周りの消し炭が残ってしまいますよね。止まった時間とは消し炭です。動いている時間とは真ん中の火です。精神は、消し炭が燃焼され、灰になっていくことを求めています。

 

 

消し炭はいっぱいあります。そしてそれを燃やした分だけの新しさが精神に感じられます。どの消し炭からでもいいので、消し炭を火に近づけ、あるいはかき混ぜて空気をいれて燃やしていきます。

 

 

ごく身近な例では、子どもが、あるいは大人同士でも、仲の良い人と自分の身の回りでおこったことをたくさん話す場面があります。あれを「時間を動かしている」と捉えます。しゃべる前の経験はまだ自分のなかで消し炭として残っています。それは、受け止めてくれる人を前にして話すこと(それはある体験を別の文脈で経験することとなるでしょう。)によって、燃えかすは消えていきます。

 

 

そのように喋ることで、ただちに燃焼され、時間が動いていくこともありますが、もっと時間が動きにくいこともあります。ライフワークとしてされるようなこともあります。そこまでしないと燃えない消し炭も自分のなかにあるのです。

 

 

ヘルパーセラピー原則(原理)というのをご存知でしょうか。助ける者が癒されるという現象を発見したリースマン(F. Riessman)が提唱している考え方ですが、「援助をする人が援助される人より多くのことを得る」といったものです。

 

 

自助グループでも、自分がある程度の回復を得た後は、仲間を助ける側にまわることで回復がさらに進むという経験はよく言われていることだと思います。助ける人は何をしているのでしょうか。それも自分のなかの止まった時間を動かそうとしているのだと思います。

 

 

回復する前の人に、かつての自分のようなリアリティが呼び起こされます。その相手に昔の自分が必要だったものを提供する。そしてそのことによって相手が回復していくのをみるとき、自分に必要だった体験が提供され、自分が回復するのです。ですので、自分の為、相手のためというのは、不可分なことであって、どちらかだけということはありません。

 

 

英国の小児科医ウィニコットは、体験とは「繰り返し到達すること」であると指摘しています。自分が回復するだけでは足りず、他人が回復することによってもう一度そのことが体験される。この繰り返し、再体験によって、体験が体験になる。すなわち、時間が動き、燃えかすが燃焼して、灰になっていきます。ずっと自分のなかにあったことが終わり、済んでいきます。

 

 

ウィニコット書簡集 (ウィニコット著作集)

ウィニコット書簡集 (ウィニコット著作集)

 

 

 

僕がジャンル難民学会(仮)発足ミーティングにきた方たちにした二つ目の質問は、「どのような条件が満たされたら、自分の探究がすすむと思いますか?」でした。わりに少なくない人が自分と同じぐらいの問題意識や関心を持っている人と話せる場があれば、というようなことをこたえられました。別のようにこたえた人たちも、それぞれに何が満たされたら探究がすすむかということを、感覚的に感じているようでした。

 

 

「回復せねば」、「探究せねば」、というような考えは、自分が今いる場所から別の場所にいく必要があるととらえていると思います。「できない自分」という位置から「できる自分」という位置へ移動したい。「空間的」にとらえ、移動しようとしています。その時、そこには大きな距離が感じられます。焦りがあり、高いハードルに対する圧倒があり、望みも圧倒され、動けなくなってしまいます。

 

 

「空間的」に考えることから、「時間的」に考えるように転換することが、状況を変えていく工夫です。時間を動かすことには、それほど高いハードルは必要ないからです。「回復せねば」、「探究するものを見つけねば」と空間的な移動を考えると圧倒され、疲れ、諦めてしまいます

 

 

ところが、時間的に考えるとハードルは下がります。「同じぐらいの問題意識や関心がある人と話せる場があればいい」は、だいぶ現実的に可能な水準になっています。そこに行けば時間が動く。その場所を設定すれば時間が動く。達成後を考える必要はないのです。今の止まっている時間を少しでも動かすことをただしていけばいいのです。

 

 

ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる掃除人ベッポ爺さんは、どんなにたくさんの仕事があっても、その仕事の終わりとまだ終わっていない今との距離を測るのではなくて、いつも今を一番楽しく、充実するように、それが成り立つ目の前に集中してやっていると、いつの間にか仕事が終わっていると言います。

 

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

空間的な考えにとらわれると圧倒され、時間を動かすことを忘れてしまいがちになります。考え方は逆です。遠い未来の「達成」ではなく、今の自分の時間を動かすためにはどのようにすればいいだろうと考えるのです。すると、たくさんある消し炭のどれかは燃焼させ、時間を動かしていけることに気づきます。そして少しでも消し炭が灰になれば、その分の勢いが増し、燃焼が自動的にすすむ新しい空気に触れることができます。

 

 

ミーティングでした二つ目の質問で、ほとんど全ての人が自分の時間がどうしたら動くのかを直感していました。高いジャンプをしなければいけない空間的移動ではなく、止まっている時間を動かすということに対しては思いつきがしやすいのです。

 

 

人と話せる場に行けば時間が動くだろうと思っても、人と話せる場がないとしましょう。「ああ、時間が動く場所に行けさえすればいいけれどそれができない」、「やっぱりダメだ」と考えてしまいますが、それも「空間的」に考えているから絶望していることに気づいてください。話す場がないという現状があっても自分のできるやり方で少し探したりすることはできると思います。ちょっとでも時間を動かせば、その分の気分は晴れます。

 

 

「時間」は、自分が絶望していても、諦めていても自律的に動こうとしています。種は、土や水など、必要な条件がやってくるまで時間を止めたままですが、いつも虎視眈々と状況を待っています。

 

 

自分がやるのではなくて、自分のなかに動こうとしている「時間」があって、その時間の求めに応じるのです。「自分で自分の人生のデザインをしなければ」などと背負う必要はなく、自分で動こうとしている「時間」に対して応答していくことが結果として、生きることを拓き、自分が考えている以上のものがやってきます。自分がやるのではなく、「時間」がやるのだと踏まえるとき、無理して「時間」の存在を感じなくなってもなんの意味もないことがわかるでしょう。

 

 

動こうとしている時間に応答していくことで、自分の状態は今予想しているようなものとは別のものとなっていきます。時間に応答することで、知らない自分に出会っていきます。それは狙って自分を変えるようなこと(そんなことができれば、ですが。)よりとても面白いです。

 

 

自助グループの参加者だった人が支援側にまわる。これも時間を動かしていった結果のことです。時間を流すこと、時間を動かすことをしていると次の展開がやってきます。探究は何が自分の時間を動かすのか、そしてどのように時間を動かす状況を自分に引き寄せるのかを知っていく営みです。