降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

意思と反動 時間を止めることと震えとともにあること

あるグループで話しの場を持った。途中、「寛解」とは何か、「当事者」とは何かという頭の議論に走りそうな時があった。

 

自分の当事者性に目を向けそこに近づいていくとき、震えが感じられる。だが頭の議論はそこから遠ざかる。

 

知識やスキルは武器だ。頭は自動的に、無自覚に、震えへの近づきを拒否するために自分の獲得したものに駆け戻り、それを強化し、遠ざかろうとする。そこにしがみつき、自分の震えを消して「安心」したい。

 

だがその「安心」にもどってもどこにもいかない。その止まった時間の世界で、感じている違和はまた先送りにされる。強い自分へのしがみつき、それによる場の支配。

 

更新を拒否するオペレーション・システム。わずかにでも出ようとした震えを打ち消そうとする無自覚な衝動性は強い。だが本人は自分がそう言ったのは自己一致した素直な反応だと思っているだろう。自己一致とは震えとともにあることなのに。

 

支援者「なのに」なぜそれを感じないのかと当事者界隈ではよく言われるが、意思で強く自分の震えを止め、コントロールしているからこそ、意思でコントロールできない、意識の間隙をついた真逆の衝動性、反動がでるのだと思う。だからその現象は、支援者「なのに」ではなく支援者「だからこそ」そうなってしまうのだと捉えるのが妥当なのだと思う。

 

精神の時間は震えが感じられる状態で流れていく。感じられる世界はそのことで更新されていく。