降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

2018関西当事者研究交流集会へ

大阪大学の関西当事者研究交流集会へ。

 

会場で配られる抄録に鶴見俊輔の親問題、子問題という考えを引用しながら、自分のもっとも深い痛みや苦しみこそが、生きることを切り開く力になるということを書かせてもらった。自分のような、何の肩書きも誇るような実績もないものを見つけ、声をかけていただくこと、世間一般の「普通」ではないことだと思う。

 

当事者研究である程度の回復がおこったなら次はどこにいくのか。回復が自分の内部にあって止まっている時間を流していくことであるなら、少なくない人がその時間を流すために、かつての自分のような人の回復を助けようとする。

 

それは本来自分がどのように尊厳を提供されるべき存在であったのかを他人を介して確認する行為であるともいえるだろう。他者を助ける時に、そこにもう一人の自分、かつての自分が重ねられている。相手というかつての自分に対して、本来提供されるべきだったものを、今その人の影となった自分が提供するのだ。

 

今回の大会で、当事者が自らそれまでの枠から踏み出し、場をもつという事例がいくつもあった。決められた小さな枠組みのなかで生きていた存在が、そこから踏み出して自分が枠組みをつくる存在になった時、世界の見え方、感じられ方、体験のされ方はまるで違うものになるだろう。

 

僕はそれが回復の続きだと思っている。個人内で完結したり終わったりするリカバリー、回復などない。そう思っている。自意識をもつ限り、回復には終わりがない。それは、今まで感じなかった充実や救いをこれから生きていくなかで感じられる可能性があるということでもある。

 

人は回復していくなかで、世界とより直接に関わり、世界との応答関係を増進させていく。

 

また今回の大会で、いわゆる診断名を持たない人も当事者として研究を発表していたり、恋愛と自分の回復の関係の研究や、「モテる/モテない」ということがひきおこす現象を通して、無意識のままに内在化されてしまった規範が人をいびつに周縁化し、疎外をもたらす構造を可視化していく研究など当事者研究が関わる対象範囲の広がりも印象に残った。

 

べてるの家向谷地生良さんも、非モテ研や恋愛と回復の研究については、ぜひチームを作ってやってほしいとか、全国に紹介したいとかなり積極的に推す発言をされていた。

 

当事者研究の多様化・重層化は、民間学、在野学といったものにも通じ、もしここが発展するならば、世界はかなり面白くなるだろう。鶴見俊輔は学問が陥る大勢順応の傾向とそれを補う存在としての民間学の意義を指摘している。

 

精密な学問、大規模な実験装置と調査機関を必要とする学問は、国家の補助をうけずには成り立ちにくい。しかし、あらゆる種類の学問がその手本に近づこうとすると、当然に学問のなかに大勢順応の傾向が生まれる。 

この一三〇年の日本の民間学を実際以上に大きく見ることを戒め、しかしとにかくこの期間を通じて民間学の流れがつづいてきたことによって、官学にしのびこみ易い大勢順応主義に別の色合いをそえていることを認めて、これからの時代に対して、ゆっくりと、学問の気風の転換をもとめる。『民間学事典』 鶴見俊輔

 

 

民間学事典 事項編

民間学事典 事項編

 

 

 

イグ・ノーベル賞などの存在は、本来どのような発見であれ、上下や貴賎などのないはず学問的探究に実際は上下があり、序列があるということを皮肉っていると思う。そのような偏りは、例えば精神科の薬物偏重のような現象にも通じていると思う。アカデミズムはその体系単独で自律的に自分の歪みを矯正したりはできない。

 

ホームレス全国支援ネットワークの奥田知志さんは、当事者たちが医療の実際のありようを研究し、「ヤブ医者」を知り、そこにいかなくなることによって健全な淘汰がされるという指摘をされていたように思う。権力は必ず腐敗する。国にしても本来であれば三権分立の仕組みをもつように、権力や権威を持つものの健全性は単独では維持されず、妥当性を異にする他者との健全なせめぎ合いによって健全性は成立するのだと思う。

 

僕は、大学院で今後ここで進んでいっても自分が探究したいことが探究しにくいと感じ、そこから出た。人はどうやって生きていけばいいのか、どのように変化し、回復していけるのか。僕は自らを実験台とし、そのことを直接探究したかった。僕だけではなく、自分の必要な探究のために、学問以外のあり方を選んだ在野の探究者たちがいるだろうと思う。

 

当事者研究は、既成の学問のあり方がカバーできないために、存在しているのに研究をすすめていけない問題群にアプローチしていける。幻聴を幻聴さんと名づけてみたり、忌み嫌うのではなく、お茶を出してあげたり、存在を肯定し和解するやりとりを重ねていくと、幻聴さんは以前より悪さをしなくなる。当事者にとっては、これが学問的にどういうことなのかを知る必要はない。学問がこの現象がどういうことかを言葉にするまで待っている必要はない。先にすすめるあり方を研究し、リテラシーを培い、こちらはこちらで探究をすすめていけばいい。既成の学問と当事者研究はお互いを生かしあい、健全にしあうものになりうるだろうと思う。

 

また自分自身が探究することをやめた人間は疎外のなかにあると思う。向谷地さんが精神障害者が奪われているのは苦労をする権利だと指摘されるように、人は探究する存在であることを奪われている時も、散歩が許されない犬みたいになっているのではないかと思う。研究や学びが誰かの専売特許になって生きることと無関係なことにされてはいけない。この意味だけでも民間学、在野学としての当事者研究は必要だと思う。

 

懇親会のとき、抄録の親問題と子問題の話しに、思った以上の反応をもらった。苦しみと向き合う人は哲学的になる。べてるの家では、専門の勉強をしたわけではないのに、哲学者の木村敏に共感する人が多いという。書かれていることがどういうことなのか、自分の体験を通し、苦しみと対話してきたことによって、書かれていることが直接わかるのだ。苦しみに向き合い、確かめられることを確かめ尽くした人は、この迷路を抜ける手がかりの接近を感じとる感性を研ぎ澄ませている。

 

今回の関西当事者研究交流集会では、回復が作られた枠を踏み出して続くあり方や、当事者研究の対象とするものが多様化し、医療や福祉に限らない学びや研究を在野の個々人のものとして取り戻されていくものになっていくはじまりを感じた。

 

またこの多様化は、その求めを一回の集会でみたすには足りなくなるかもしれないとも思った。特に恋愛と回復の当事者研究、恋愛が社会においてどのように人の周縁化や疎外に関わっているかなどは、独立した一ジャンルとして成り立ちうるのではないかと思った。