降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

対話的やりとりという視点が日常を再編成していく

出会い、学び、対話、という共通の要素を含んだ言葉を自分なりに整理し、大まかにそれぞれの場所をふってみている。

 

出会いは更新される事態そのもののことであり、「学んだ」とは更新がおこったということ。「学び」というときは、更新に向かう関わり。ただ本人の意図の有無に関わらず、変容のプロセスがともなうやりとりがあるときが学びなのであり、この変容のプロセスがともなうやりとりこそがすなわち対話であると位置づけられる。

 

単に知識や技術が蓄積され、自分が強化され、自分の殻がより厚くなったものは「学び」とは呼ばない。学びは蓄積でであるよりも、むしろ今までの自分のあり方が解体されること。自分の世界の見え方や感じ方が一新されること。

 

少し前までは学びによる更新と、その更新がそこにある人間関係をより更新がおこるのに適したものに変わっていくことに主に意識がいっていたが、今は対話という言葉の広がりを捉え直して明確にすることよることで、日常で何をどうとらえ、どう関わるか曖昧だったことをクリアにしていけるように思えている。

 

何かを選び、継続的に関わる学びによる認識の更新の前に、まずは管理統制が環境にガチガチに敷かれていること、そしてそれを個々人が内在化している状態を外すことが、その後の学びもにつながっていく有効な手段だと考えるようになった。

 

環境にガチガチに敷かれた管理統制を打ち消す境界的、サードプレイス的な場の設定、そしてやりとりする対象の設定、更新ということに向かえるやりとりのあり方、これらは対話という言葉を置いて整理しなおしていったほうがよさそうだ。何らかの深い認識に到達しなくても、人が人たる感覚やリズムを取り戻していくことによって、ある程度までの行動変容や内在化したものが排出され、代謝される働きが自律的にすすむ。

 

先日改めて認識したのは、対話がおこるということを念頭にしたとき、何を対象として設定し、やりとりをおこすかということ。自分のなかに何かのプロセスが生まれ進んでいくやりとりにおいて、対象は何でもいいわけでもなくて、反応をおこす対象を設定する必要がある。同じ行為をしても相手によっておこることが違う。

 

ある年配の人が、ちいさな自営業をしている自分の子どもとその従業員数人に弁当をつくっているというエピソードを聞いた。その人は料理が好きなのだが、出す相手によって自分が更新されるやりとりになり得るのかそうでないのかが違うということを言っていた。具体的には、子どもと従業員に対する弁当は他人が含まれるということもあり、適当にできない適度な緊張感があり、よって自分の料理に対するこれでいいのかという問いが生まれ、料理との関わりが更新されていく。一方、家の人に作るときはその緊張感が持てずに、残り物でいいかとか、今の自分の更新につながらない、惰性的な行為になりがちだとのことだった。

同じ料理をすることであっても、適度な緊張感をもたらし、自然と自分自身への問いをうながすような対象が、更新のプロセスをもたらし、充実ももたらしていく。家の人対象だったら駄目なのかということではなく、それならそれであえて適度な緊張感をもたらす設定をそこに埋め込む。するとそれは対話的なやりとりになる。

 

対話的なやりとりとは、自分に変容更新をおこすやりとりのことだ。その変容更新によって、人は世界にまたしばらく新鮮さを取り戻す。新鮮さは人の精神が生き生きとし健康であるための基盤であると思う。

 

日常の様々なものとのやりとりは、自分に変容更新をもたらし、世界をまた新鮮なものにする対話的なやりとりだろうか。それが対話的なやりとりになるためには、どのような設定を付与することが必要だろうか。この視点で今の自分のあり方を再点検し、再編成していく手がかりが生まれると思う。

 

話しの場にしても、全然自分が平気で揺れない状態では更新がおきない。



(もちろん偶発的な出会いはいつだっておこりうるが、それは木の株にうさぎが頭をぶつけるのを待っているようなもので、意図して対話的やりとりを引き寄せるということで。)


あえて少し揺れるところで話すと、自分が変容更新をおこすやりとりになりうる。そしてそれをしようと思うと場の暴力性や不安要因を取り除く必要がある。対話的やりとりを成り立たせるためには、自分にとって適度なやりとりの対象の設定、対話的やりとりがおこりうる場の調整が必要だ。