降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「人と人」が意味すること

「人と人」ということがおこりえたとき、そこでは有用性や価値の高い低いという物差し自体が打ち消されている。言い換えれば「人と人」というときは、人をモノとして扱ったり、見たりすることが打ち消された関わりのことが指されているともいえると思う。

 

何かを高く評価すること、プラスの価値づけをすることがいいように思えるけれど、それは必ず条件に紐づけられていて、その条件を満たせないものにとってはその価値づけ自体がネガティブだ。何かを評価し高めることが目の前の人をより残酷に否定しているようなことにもなりかねない。

 

あるネガティブに見える価値を別の価値で補おうとするのではなく、そのネガティブにみえる評価基準があたかも最初から存在しないかのように、それが取り沙汰されることがはるか昔に世界から消えてしまったかのように、当たり前のように打ち消されることが人の心を救うと思う。

 

どんなに自己評価の高い人も何かの基準に満たされるから自分には価値があるのだとしているならその人はその基準から外れることを内心では恐れていて、その基準を満たし続けることに必死にしがみつこうとしている。言葉の世界に一度入ったからにはどうしても何かの価値基準によって自分を評価せざるを得ない。

 

だが、そうして有用性や価値によって否応無く点数をつけられることは、もともとの言葉の以前の感覚からすればあり得ないほど屈辱的で惨めなことなのだと思う。

 

故郷は遠くにありて思うものというけれど、ノスタルジーというのも多分終わってしまった過去自体に感じているのではなくて、終わってしまった過去というたとえが言葉以前の感覚やあり方を喚起するものではないかと思う。過去の遠い記憶が換喩としてはたらき、言葉を使いながら言葉以前の世界が直観的に思い出されているのではないかと思う。その遠い世界では自意識を持って以来抑圧され続けてきた自由や尊厳、救いが回復されている。

 

有用性の強迫をどのように打ち消すことができるのか。そこに工夫の核心がある。カフェで高い身分の者も平民もその線においては水平の関係になったように、普段の序列や価値基準が別のものにとって代わられる場を構成する。完全な自由や安全などは用意できないが、具体的な今ある強迫を必要な間だけ打ち消せればいい。その間隙を縫って、人の心は更新される。