降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

奥田知志『もう、ひとりにさせない わが父の家にすみか多し』

1月に同志社大学であったバザールカフェ企画の催しで奥田知志さんのプレゼンをきいて、東京に2泊3日で講座を受講してきてた。

 

西陣古書店カライモブックスさんでほうじ茶を買った時に、奥田さんの本があると紹介された。その本が『もう、ひとりにさせない』だった。

 

 

もう、ひとりにさせない

もう、ひとりにさせない

 

 

奥田さんは両親に愛され、ホームという感覚を知っていたという。中学2年で洗礼を受ける。両親は非クリスチャンだ。信頼できる教会の仲間と先生に恵まれた。だが釜ヶ崎の現実に出会って信仰が揺るがされた。人間が労働力として使い捨てにされていく歪んだ社会の現実をみた。

 

「神はいるのか」その問いを持って奥田さんは牧師になり、ホームレス支援活動を続けた。あるとき、エリ・ヴィーゼルの『夜』を知った。アウシュビッツで起こった発電所破壊事件の犯人として3人のユダヤ人が選ばれ、みせしめとして公開処刑される。そのうちひとりは子どもだった。その描写がある。

 

夜 [新版]

夜 [新版]

 

 

ついで行進が始まった。二人の大人はもう生きてはいなかった。腫れあがり、青みがかって、彼らの舌はだらりと垂れていた。しかし、三番目の綱はじっとしていなかった。子どもはごく軽いのでまだ生きていたのである・・・。

 私が彼のまえを通ったとき、彼はまだ生きていた。彼の舌はまだ赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。

 私のうしろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。

 「いったい神はどこにおられるのだ」そして、私は、私の心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。

「どこだって。ここにおられる。ここに、この絞首台に吊るされておられる・・・。」            『夜』村上光彦訳、みすず書房

 

そして奥田さんはマルティン・ルターを紹介する。ルターは自らの神学の中心を「隠れたる神」に置いた。神学者レーヴィニヒは、ルターの十字架の神学(神は人間にみえる「栄光」のなかには現れず、その逆である十字架=磔台において現れるとする考え)について、以下のように指摘する。

 

「十字架の神学は、思弁による認識を避ける。(中略)ルターにとって宗教的思弁は、みな栄光の神学である。栄光の神学においては、キリストの十字架のもつ基本的意義が神学的思惟全体に対して、正当な位置を与えられない(中略)。キリストの十字は、人間にとって直接的な神認識がないことをあきらかにする。キリスト教に関する思惟は、十字架の事実に直面して停止せざるを得ない。十字架を無視して栄光の神学になるか、あるいは、十字架が新しくキリスト教思惟の原理となって、十字架が新しくキリスト教思惟の原理となって、十字架の神学となるかどちらかである。」『ルターの十字架の神学』岸千年訳、グロリア出版

 

ルターは著書『ローマ書講解』のなかで、次のような逆説的言辞を持って神について述べているという。

 

「われわれにとってよいものは隠されており、また、深遠なものであるからこそ、逆の相の下に隠されているのである。このようにわれわれの生は死の下に、われわれの愛ははわれわれの憎しみの下に、誉れは恥の下に、救いは滅びの下に、力は弱さの下に隠されている。一般的にすべてのよいものをわれわれが肯定するとき、それは同じように反対の下に隠されており、それだからこそ神に対する信仰が場所を得るのである。神は否定的な本質、善、知恵、義であって、われわれが肯定するすべてのものの反対の形でなければ、得ることも、達することもできない」 『ルター著作集 第二集』第九巻、リトン、2005年

 

全然わかったわけではないが、なるほど、と思う。納得がいく感じだ。

 

言葉によってできた世界の完全な否定こそが、言葉によって対象化され、分断され、孤立した自己を救う。肯定的なものはそれ自体で、その分断の世界を強化してしまう。対象化、分離、孤独をもたらす言葉の世界を余計に強化してしまうのだ。言葉によって捉えられた世界、その疎外の世界の欺瞞を揺り動かせるのは否定的なものでしかない。

 

神とはつまり対象化を捨てた世界そのものであるのだろう。言葉の世界、自意識を通してみえる世界が棄却された世界。言葉の前の世界。

 

滅びの反対物としての「救い」への乞い、「救い」の反対物としての滅びを共に自ら捨てること。言葉の世界の強化をやめること。

 

ルターのようなキリスト教者は、言葉の世界の向こう側を感じうるのだろうか。