降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

遊びとしての学び 移動としての遊び

学びについてもう少し。

先の投稿で学びとは外していくことだというところにきた。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

獲得にみえること、獲得と考えられることも、前の固定的状態から「外れた」「外した」とみなすことができるだろう。『学ぶ力』の工藤直子の話しているところから考えを得た。工藤直子は自分の状態を変えること、ある状態(4、5歳の自分の感覚や面白い、わくわくするというような感覚)を維持したり、そこに切り替えたりすることについて多く話していた。

学びには遊びということが含まれていて、遊ぶとはもともとある何かとの距離感を変えることだと思う。固定的な状態には遊びがない。変化もない。だが遊ぶとき、その固定的状態が変化する。

 

学びが外れることを趣旨とするものであるならば、まず遊ぶことによって通常の固定状態を外れる。そしてまた通常に戻るのだが、戻った時は以前の通常の状態ではなく、そこから外れている。外れる楽しさが遊びで、外れた先が学びである。

 

遊びの楽しさは移動の楽しさなのかもしれない。いつも留められているところから移動する。その楽しさ。

固定的状態を一旦わちゃくちゃにする。洪水がおこってそして水が引いた後には地形が変わっている。そういうのも遊びだろう。

移動(遊び)への欲求。移動はそれ自体で喜びでありうる。

 

回復というとどうしてもなんとなく生真面目で固定的な状態を導きやすいが、あらゆる移動を試してみることを制限する結果になることは非生産的だ。

 

最終的には自意識においてやることを自分の価値が密接に結びついているアイデンティティ(Doing identity)から、やること、意識的にそうあることと自分の価値が別段結びついていないアイデンティティ(Being identity)へ移行していくと、楽で生き生きとした状態にはなるだろう。回復というのは、このアイデンティティの移行のことだろう。

 

移動、つまり遊びが学びになる。固定状態に対してより有効な移動、有効な遊びを用いることが次の状態を導くだろう。移動(通常状態の移行)のための移動(遊び)がある。回復というのは、たとえば、気持ちのめぐる通路が掃除されてより詰まりがない状態にあることだろう。

しかし、用もないのにそこまで綺麗に掃除しなくてもいいかもしれない。めぐりが悪くなっていることによる負の影響が自覚されているならそのまま回復に向かえばいいが。通路が仮に綺麗になったところで、生は変わらずあるだろう。どこにもいかない。回復は目的ではなく、派生的、結果的に遂げられるのが一番いいだろう。

移動自体が喜びであるのであるから、移動を使って状態の移行をおこす。そのことによって終わりのないメリーゴーランドの周りの風景が変わる。学びはその風景を変えるための移動なのだ。