「人は、手に入れたものじゃなく、手に入れられなかったものでできている」(anone)
熊谷晋一郎さんは回復とは自分の有限性の意味を見出していくことだという。
意味を見出すとは、手に入れられなかったものでできているこの自分の見え方、つまりこの世界の見え方を変えていくことなのだろうと思う。
小児科医ウィニコットは、子どもは母親を見ているのではなく、母親の瞳に映る自分を見ているという。自分の存在の意味は、母親の瞳へどのように映るのかによって決まってしまう。
自分の見え方は、「母親の瞳」にあたる、投げかけた自分を映す鏡のほうが変わることによって変わる。白雪姫の魔女も一人だけで自分の美しさを確信することはできない。
最後に魔女がはかされ、そのために死ぬまで踊り続けなければいけなかった灼熱の靴は、耐えきれない自己規定(=受容できない有限性)を持ったものがもはや存在しない鏡の肯定を求め、もしかしたら肯定されるかもしれないという可能性にすがって、永遠にあらゆる様態をとり続けなければならない苦しみを表しているように思える。
鏡は既にできてしまっている。だから回復は、自分の知らない世界へ踏み込むこと、既知の世界から踏み出すことを抜きにおこることはないだろう。
ときどきこの人のこの言葉を思い出す。"生きていると「あのとき、こうすればよかった/しなければよかった」ということばっかりですけど、「そのときはそうするしかなかった」ことの連続が人生なんですよね" /正しさのために楽しさを捨てる必要はない | 鈴木涼美 https://t.co/EG8qdSYJqn
— 岸政彦 (@sociologbook) 2018年1月31日