降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

発達障害のある人がボランティア側に立つことの意味

大阪ボランティア協会の発達障害を持つ人がボランティアする側に立つときを考える勉強会。

 

先日のバザールカフェ主催の奥田知志さんのプレゼンの内容の濃さには驚いて、今までその存在も知らなかった自分の関わる世界の狭さを実感してよかったけれど、今回のこの勉強会も想像以上に内容が充実していた。特に広野ゆいさんのプレゼンや見識に感銘を受けた。

 

 

ボランティアというのがなんであるか、特に自分が考える領域とも思ってなかったけれど、発達障害がある人がボランティアする側に立つということは単純に支援する側とされる側という枠組みの次元を変えるものだと思った。

 

 

自助グループにおける回復者が支援側になり、かつての自分の立場にいる人の回復を助けることでさらに深い回復を遂げることが様々な場所で確認されている。回復者は単に自己に閉じた幸せを求める次元を超えてより広い社会に働きかけ、その環境を改善する存在になっていく。

 

 

回復とは単に経済活動に再従事して平均かそれ以上の稼ぎを得られるようになることではなくて、自分の底にある願いや思いを社会と接続し、環境を変化させていくことであると思う。回復は自分の周りの環境、そしてまたその周りの環境を変えることとして続いていく。

 

 

助ける人は自らの深い回復を求めて人を助ける。そしてその関わりにおいてこそ人は回復できる。つまり助ける人は自分に関わりをくれる存在に助けられている。

 

 

自らを助けるために人を助けているということを認められない支援者、自覚のない支援者はたとえ何を助けていたとしても相手から奪うために関わっている。実際にそういう人は相手からイニシアチブやエネルギーを奪う。自分の当事者性に気づかない状態の人は、それを自覚している支援される側の人より後方にいる。

 

 

発達障害を持つ人がボランティアをする側に立つことを認めることは、人は人を助けることによって自分を回復していくしかないと認めることにつながると思う。

 

 

その時ボランティアとは、やってあげることではなく、関わらせてもらうことになる。もちろん相手は助けを求めているからこそ関われるのだけど、自分はそこに関わることによって回復させてもらうのだから。

 

 

ここでようやくお互いさまの世界になる。助ける人は助けるという行為によって自らを回復させる。助けられる人は自分が助けを求め、相手の助けを受け入れることで援助者の回復を助ける。助ける人は助けられる人であり、助けられる人は助ける人だ。

 

 

自他への信頼を酷く傷つけられた人は、強固に安定して安全なものとの関わりで少し回復する。そして次にその状態で少しだけチャレンジングな人との関わりをさせてくれるところで回復が進む。回復は自分の今の状態に対して程よい人との関わり、程よい挑戦をすることによってすすむ。そしてそれが飽和するとまたその状態にあわせた程よい環境が必要になり、またそこでまた程よい人との関わりという挑戦をすることによってまた回復が進む。回復とはずっとこの繰り返しをしていくことだと思う。

 

 

この時ボランティアとは、助ける人つまり自分の回復のために人と関わる人とそれを受け入れる人のお互いさまの協働作業であり、お互いを育てあい、学びあうためのコーディネート、環境設定であるといえるのではないかと思う。