降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

稽古のレポート

身体教育研究所の稽古にいってきました。まず一つは身体イメージを実際に実感される内観的身体に構成し直すということをやっているようです。

 


身体イメージはいわゆる解剖学的な身体イメージです。通常はその後天的に目で見て取り入れたイメージをリアルだと錯覚し、それゆえに無理が出たり、パフォーマンスが落ちる。

 

実感される身体をどう捉え直すか。手首と腕と胴体は連続して繋がっています。ではどこからが胴体でどこからが腕になるのか、手のひらや手刀で触れてもらい、その境界を探って行きます。

 

結果、腕と認識されるのは肩よりは15cmぐらい下であり、手首と腕の境界線は解剖学的な手首よりやはり親指一本弱ぐらい腕寄りです。実感のレベルと解剖学的なイメージとでは、体の部位の範囲が違うのです。

 

実感のレベル、境界を意識して体を動かすといつも通り動かす時と違い、力強さや安定が現れます。

 

実感のレベルで境界線を意識するワークの他に、腕に力をこめてみて、力を込められる部分と二の腕など力を込めてもなお緊張しきらない部分の境界を確認するワークをしました。

 

その境界を意識することによって、結果的に自意識でのコントロールを相殺することになります。意識しているのに、自意識のコントロールから外れた自然の状態になる。型というのは自意識のコントロールを打ち消すためにあると後で指導の角南さんも言われていました。

 

実感の境界、意識でコントロールできる部分とできない部分の境界など、境界の把握がポイントになるようです。角南さんなどは内観的身体が今やデフォルトとなっているので、かえって一般の人の身体イメージで動くのが難しくなったと笑われていましたが、単に自分の体だけでなく、相手の身体の境界がどこか、触ったら感じ取れるようです。角南さんがここだねと触ってくれる部分を基準に動かすとお手本で提示された状態が再現できました。

 

触れるということは、感応するということであり、整体ではどのように人やモノに触れられるかということを追究しているそうです。自意識の機械的なコントロール上では感応の感覚も消えているようです。

 

自意識が支配している状態では世界と感応的な関わりを持てないが、実感に基づく内観的身体へ移行し、コントロールできる領域とできない領域の境界に焦点を当てることによって自意識のコントロールを無化する。すると自分も安定するし、自然と世界と感応する状態も現れる。腑に落ちる考えです。

 

人間は自意識を使い、体を動かし、文化も作ってきましたが、その自意識によって同時に自分自身の自然な状態と世界との感応が疎外される。その自意識の弊害を自意識がまたとるということですね。自意識の弊害をキャンセルするということで、整体でやっているのは自意識の取り扱い方を学んでいくということとも言えるのかなと思いました。