降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

おとあそび工房ふりかえりの会

おとあそび工房のふりかえりの会に参加。準備するからだは後手後手にまわる、など砂連尾さんのお話しはやはり面白いなあと思う。メンバーのそれぞれのリアリティもかなり濃縮された知見で興味深い。

 

 

舞台にして観客にみせることと、自由さとか、パフォーマンスを通してその場にいる人たちが変容したり、解放されていく理屈は別々のものだろう。

 

 

僕は舞台の人ではないので、個人的にはそれをどう両立させるかよりも、実際にやってみてどういう設定だとどうなるのか、それを確かめる手がかりとして主に聞いているかもしれない。

 

 

おとあそび工房の公演のほうではなく、その前段階でもあるワークショップのお話しのなかで、あるメンバーは自分はどうなったら解放されるかなというところを頭においていて、それはかんちがいかもしれないけれど、ワークショップの場はそれぞれのかんちがいが多重になってそれが面白いというか、許されるというかという感じのことを言われていて興味深かった。

 

 

もし仮に全員がここは解放なり治療の場としようとしてその規律をもって場を構成したら、そのことによって場が死んでしまい、解放の逆行さえおこるだろう。何かをよいとすれば、そのよさにたどりつけない恐れが生まれる。すると場に解けない緊張が一つ設定され、そのことによって停滞するという矛盾が生まれる。目的はどうでもいいことを設定するほうが、結果として豊かなものが派生してきたりする。

 

 

べてるの家のわいわいがやがやというのもこういう感じではないだろうか。正しい一つの規範があるようなかんじよりも、それぞれ勝手なものがわいわいしていて、何が正しいとか、こうすべきとかが撹乱され、相殺されることによって自由になる。それは、破綻的な無秩序ではなく、それぞれの存在がそれぞれらしく喜んでいる状態の響きに満たされているから、それぞれの人はその自由を受け入れられ、味わえるのではないかと思う。