降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

出会いの場

学びとは何か。どのようにそれはおこるのか。

 

 

考えていった結果、既に型が決定している勉強会のような企画の前に、かつての京大地塩寮のウィークエンドカフェ、高野の月曜ハナレのような、あるいはアサダワタルさんがやっていた琵琶湖の花火大会の時の住みびらきなど、多様な人が集まり、個々人が自分がどう関わるか、誰と関わるかの調整できる範囲が多い、柔軟に人と関われる出会いの場がまず必要なのではと思うようになった。

 

エスコーラの人たちにちょっと定期的なバーみたいなのをやりたいと相談した。

 

 

最近場について思うことは、ある場において、人にとっては無意識の水準で、かなり自己調整的、あるいは協働創出的なことが動き出している。

 

 

見えているものが限られているファシリがこう導こうとするよりも、その自己調整的、自己創出的なものをそのままにさせた方が面白いことがおこる。

 

 

なんとなくで動ける、なんとなくやってしまう、というようなことを誘発するような場は、個々人の自分に対するいらない検閲と抑制、同じパターンの繰り返しをはずす。

 

 

学びというのは、まず出会いがあり、そこから必要性が生まれ、そして解きほぐしをすすめるなかで、次の状態に移行することのような気がする。

 

蓄積よりも既にあるものの解きほぐしの結果、新しいものと出会う。最初の出会いは必要性、必然性をうむきっかけで、解きほぐしの結果出会うものが核心のところではないか。この二番目の出会いによって、十分な更新がおこる。

 

 

インプットだけを学びだと思いがちだけれど、まずは今の自分の固まったバランスを崩す出会いから学びの必然が生まれると考える。

 

一連の過程を含めて学びは成り立っていると思う。だからその最初の出会いのところを作る必要があると思うのだ。