救いのベクトル
論楽社の虫賀宗博さんの話しを聞いたことがきっかけで、ハンセン病についての本を何冊か買った。
病者は家族を「守る」ために偽名を名乗らされたり、結婚の際の断種手術を強要されるなど人権や尊厳を奪われた。
本名を名乗ることで家族の縁談が反故になり、それがもとで病者でない家族が自殺するようなこともあったようだ。
自分が我慢すれば、他の人が幸せになる。
それでよいのか、よくないのか。
他の人の幸せといったときに、その幸せとは何なのか。
家族の反対を押し切って、本名を名乗った人もいる。生きている間に差別は消えないけれど、そのなかでそれが消えていくように生きる。
みんなが満足して丸く収まる、というのはないなと思う。
人が人として救われることと、生き続け暮らし続けることを前提にすることは、ベクトルの違うことなんだと思う。
人が人して救われることをもし揺るがせないものとするなら、その人は人に直接的な暴力を一切振るわなくても、反逆者としてある。人が人であることは、どの時代でも反逆なのだ。
世間との取引きが割に合うあいだは、人は本当の救いを得るのを我慢できる。先に延ばし、いつかできるかもと希望を持つことと、安定することのいびつな両立が保たれる。
既に多くのものを奪われてしまった人には、世間との取引きは割に合わない。救いに向かうしかない。心の奥底の救いに向かうより、生き続けるために死んでいる多くの人のなかで。