降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

宛先

人には自律的に気づき、変化更新していく力がある。ただ、ゆだねることができないと更新はおこらない。

 


ゆだねるというとき、相手の助けてくれる力に依存することが核心なのかというと、そうでもなさそうな気がしていて、むしろどちらかというと、それまで自分を自分として堅持するためにしがみついていたことを打ち放ち、内からの自律的な動きにゆだねるのが核心ではと思う。

 

それをおこすための宛先、投げかけ先として相手は必要なのだと思う。相手に特殊な力があって導いているわけではなくて、ここ(の秩序)ではないあちらとして必要。

 

「あなたがいてわたしがいる」というけれど、世界や相手への関わり方(そこに何を許し、何を許さないのか)が、世界や相手が何であるかの意味を自分のなかに決め、そしてそれを決めた結果として自分が何であるかが規定される。

 


いわば、どこまでも自分が決めたイメージのなかにいるのだが、ゆだねるとは、そのあるイメージの外に出るために、世界や相手に自分を差し出して、今までにない関わり方をするということだと思う。そんなことをしたら、これが自分だと信じ、固め揺るがせないようにしがみつくのができなくなってしまうようなことを内側が要求しだす。

 

自分がつくり変えられてしまう未知なものは、そこに行かないことによって作り出されており、いつも対面に存在している。