身をひたす
人に直接働きかけることによって、直接的な効果を得るのではなくて、働きかけたり調整するものは場の設定だと思う。
豊かなものとは派生的なものだ。そして派生的なものは自律的であり、自己展開する。派生的なものが持続的であり、派生的なものを発生させ、そこにゆだねられる状態になるために、場を調整する。
自意識がいちいちああしようこうしようと選択し続けている状態は疲れるし、持続的ではない。そもそも自意識、思考が優先になる状態とは、防衛が優先になっている状態だと思う。過去にしがみつく状態。
自意識で操作するのは、最終的に場に派生するものへのゆだねに持っていけるように環境を調整することであって、そのゆだねに入った時に、それまで投資したエネルギーは、払った以上の豊かさとなってやってくる。
作ろうとしている話しの場は、学びの場。日常の価値規範への一体化を一旦やめ、離す。距離を変えてみる場。喋った瞬間、直ちにいいとか悪いとかこうすべきにならない場によって、固まってしまったものがほぐれるために出てくる。
きっかけは外からのものであれ、無自覚であれ、自分自身によって抑圧していることが、状態を固定化させる。だが、固まったものは何度でも違和感や苦しみとして表れてくる。気のめぐりは、終わりなくその滞りを解こうとして働きかけてくるからだ。
気のめぐりは、自意識の価値規範や何かへのしがみつきに対しては、都合の悪いことを要求してくる。自意識は自分を守るために、その求めを遂行するための手間暇や代償を拒む。
だが、実のところ主体は気のめぐりだ。生きているの自分では自己更新できない自意識ではなく、気のめぐりなのだ。エネルギーや新しいものはそこからやってくる。どんな無理難題を要求されているように思えても、それを何とか調整して気を通すしか、生を充実させる選択肢はない。
抑圧が過ぎると、抑圧されたものは暴走して出てくる。破壊的になる。だから暴走の前に、場を整え、出てきてもらう。出てくるものが持つリアリティは、場の質をまた変える。場の質が変われば、また人から出てくるものが変わってくる。
この循環にたどり着けば、「仕事」は場がやってくれる。
理論ではなく、身を浸し、このような循環の感覚を共有してもらうことが重要であって、この感覚が根づけばいちいち考えなくても、開ける方向性ややったらおかしくなることが感じられるようになる。その感じに照らしながら、考えや行動を自然と調整していくということができるようになると思う。