当事者研究の集まりを京都の3箇所で始める。
どういう趣旨でやるかを考える。A4の紙のプレゼンで紙芝居的にやろうと思う。
あと1時間後に発表する準備を今からやってみる。
なぜ当事者研究をやるか
そもそも当事者研究とは
→北海道の浦河べてるの家で始まった手法
→浦河べてるの家→精神障害のある人のための施設。「苦労を取り戻す」「三度の飯よりミーティング」「手を動かすより口を動かせ」など既存の発想を超えた革新的な考え方や取り組みで注目されている。
→専門家に問題解決をお任せず、問題を持った当事者同士が集まり、自分で自分の問題を「研究」し、そのからくりや対処法を研究し、発表する学びの場。
効果
→問題に対して受動的に苦しめられるだけだったのが、逆転し、問題があたかも人とやりとりする「ネタ」のようになり辛さが激減する。
→専門家でも思いつかないような対処法が編み出される
→当事者間の関係性が育つ
→弱さを認め育てあえるお互いになっていく
なぜ当事者研究をここでやりたいか
→「専門家」が「患者」を治療することから生まれてくるものが少ない
→「素人」が自分たちで自分たちの困りごとを話し、自ら答えを見つけられる環境の方が重要だと思うこと
→必要なことを自分たちで満たしていくことが、人と人の関係性を育て、自己効力感を増大させていくと考えること
自分の当事者研究
→最近オープンダイアローグのワークショップ行ったりして、他人に対する怒りがどのような時に出るのかパターンのようなものが感じられた
→パターンは、正しくあらなければならない、無自覚であってはいけない、などの「べき」という自動反応する信念によって現れているようだった
→生育歴などを振り返ると、無自覚な大人への怒りや、あのようにあってはいけないという強い反発が内在化したように思える。
→また叔母から親がいない時、無理やり組み敷かれてキスされるということが続き、叔母のような存在への嫌悪感、汚されたものとしての自分というものができた
→叔母のような「キモい」存在になってはいけないが、自分が「キモい」という感覚が払拭できず、その反動として、過剰な正しさや我慢するべき、みたいな信念が内在化した。