降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

じゃなかしゃばとしての文化

辞書や学問でどう定義されているか知らないけれど、僕は文化というのはサバイバルということに生を埋め尽くされることをやめるために生まれていると思う。

 


どんな事故に遭うかわからない。どんな病気にかかるか、どんな障害を生まれ持つかわからない。お金を稼ぐというのもサバイバルだ。生きていることのほとんどはサバイバルの理屈に影響されている。

 

にもかかわらず、心はサバイバルの世界に生きるのをやめる。生きながらにして生きることに奪われ切ることに反逆する。文化はそのためにあると思う。

 

じゃなかしゃばという水俣の言葉がある。あたかも辛い現世(しゃば)でない(じゃなか)ようなところというような意味らしい。有機水銀に侵され、重い障害と今でも続く差別やバッシングの終わらない現世に生きていても、そんな現世ではないような関係性のあり方で人としていられる場所、尊厳を持っていられる場所。

 

それは同じ苦しみを持った人同士でいるときかもしれないし、もしかしたらそうでない人との関わりのなかでもあるかもしれないけれど。

 

僕はその場所が文化のある場所だと思う。じゃなかしゃばというのは、文化のある場所のことだと思う。だから差別、バッシング、蔑みを受ける場所は、僕の定義では文化はない。どんな都会であっても、どんな最先端のものがあったとしても、人が人としてあれるということがなければ、そこに文化とよべるものはないと思う。

 

人は人として扱われないと、変わっていけない。抱えたもの、古いものを更新していけない。だから文化が必要なのだと思う。

 

強くないと生きていけない、優しくなければ生きる資格がない(「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」)というのは、フィリップ・マーロウという架空の探偵の言葉らしいけれど、後半の訳を「生きる資格がない」ではなく、「生きている気にもなれない」とする訳者もいるらしい。
僕は、gentleというのは、人としてあるということだと思う。心の震えを持っているということだと思う。

 

これ以上、どこにも行かないサバイバルの世界に埋没しているだけであるなら、生き続けることはもう割に合わない。そこまで追い詰められた人が、生き続けてもいいと思える理由が、人としてあることなのだと思う。共に人と人であること、じゃなかしゃばを誰かとの間に生むことなのだと思う。