大学時代から話しの場がほしかった。
話しの場がなかったわけではないけれど、足りなかった。友人に頼めば、別にいくらでも話しは聞いてくれただろうけれど、聞いてもらうということがしたいわけではなかった。相手が自分と同じぐらい関心がないことを話してもむなしかった。
zeroという松本大洋のマンガがあって、そこで表現されていた主人公の飢えが自分の体験している感覚と一番近いと思った。zeroは、リングの上でしか人と関われる場所がない。しかし、物語ではzeroは強すぎるので、自分の渾身をぶつけられる相手がいなかった。幼いzeroが、虫を手で潰しながら「(みんな)すぐ壊れちゃうんだ」というシーンがある。

ZERO―The flower blooms on the ring………alone. (上) (Big spirits comics special)
- 作者: 松本大洋
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1995/08
- メディア: コミック
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渾身をぶつけられないと終わらない。引退間際の年になった時に、若く自分と同じような狂気を持った南米の若いボクサー、トラビスに出会う。試合で、意識が混濁し、子どもに退行するほど手ひどいダメージを受けて、zeroはようやく自分の殻をかなぐり捨てた衝動そのものになる。
「もっと高くへ行こう もっと高く もっと高く」と狂気を高めていくzeroの内面のセリフが、自分の求めている感覚に強く一致した。そうだこういう感覚だと思った。トラビスは、zeroと同じような狂気を持っていたが、途中からzeroの狂気の高まりに耐えられなくなる。
「ここは高すぎる。息ができない。」
「人」に戻ったトラビスはzeroに潰される。
相手が自分と同じ求めを持っている時、そのことによって高まりが生まれる。その高まりによってしか、自分を終えていくことができない。死に切れぬものを終わらせることができない。
自分が話しに求めていたのは、その高まりだった。高まりそれ自体の自律性がこの牢獄を終わらせる。何を理解せずとも本能的に体はそれを知っていて、そこに行くように駆り立てていた。
誰かの凝縮されたリアリティに触れたい。それが高まりに該当する。そのことによって、自分のリアリティが動き出す。死んでいるように生きていても、その凝縮されたリアリティがこちらに反応をおこす。
誰かがその身、その生において凝縮させたリアリティを食べて自分は生きてきた。それによって体を更新してきた。そうでしかあれない。
<zeroについての過去記事>