降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

死んだように生きている

誠光社で、砂連尾さんと西川勝さんのトーク。

 

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楽天堂のむうさんとも久しぶりにお会いする。対話の場を作られようとして、なかなか難しかったとのこと。アズワンの話しを紹介する。

 

砂連尾さんのお話し、自分は幹のようにあって、枝葉が動くようにとか、感性でとらえられたことの表現がやっぱり面白かった。それはどういう感じだろうか、と聞きながら自分もその感覚をなぞってみている。


ある人が感性でとらえたものが面白いなと体感する時、僕はその表現されたことの論理的整合性とか、思想的一貫性とか置いておいて、コラージュを構成するパーツのようにとっておく。考える枠組みは、記憶に残っているパーツのコラージュでできている。

 

感性でとらえたことを表現する時、自分の説明が論理的に矛盾することを気にする人がいるけれど、僕はその人にそういう整合性を求めていなくて、整理はこちらがやるから言葉として矛盾していてものびのびと話して欲しいと思う。のびのびと話してもらう時、情報としても最も豊かになると思う。

 

西川さんと久しぶりに話した。西川さんは、欺瞞のあるもの、中途半端なものはバッサリ切る。哲学カフェも取り繕ったうわべのやりとりになるなら意味があるとも思えないと考えられているよう。

 

誰かに何かを教えたり、誰かを変化をさせたことではなく、関わりによって、自分がどう変わったかが重要であり、語るならそれを語れと言われる。正論。

 

砂連尾さんが、合気道で力を抜けといわれるけれど、意識的に抜くとそれは違うといわれるという例をだしていた。言葉による体の支配、動き方の支配をどう機能不全にさせ、動きを解放するか。「地球を動かす」ように歩いたり、鏡に映る動きよりちょっとだけ早く動こうとするとかいう指示で、言葉によって矛盾を作り出す。毒を持って毒を制するようなことでもあるのかなと思った。

 

西川さんは、釜ヶ崎のおっちゃん達と哲学の教室をしているらしい。権威などまるで認めないおっちゃん達とのぶつかり合いが、西川さんにとっては健康的なもののようだ。
僕はあまりワイルドな感じのところには行こうとしない。そういうところからは離れていようとする。

 

この世界の片隅に」をみたある人が、敗戦の際に絵を描く右手を失ったすずさんの、考えないでいいまま居られるところに居たかったという言葉を引用しながら、すずさんはそれまで「死んだように生きていた」という。自分が連れていた人の子どもごと右手が爆風で飛ばされるという現実の暴力に出会い、すずさんは生きていることに直面せざるを得なかった。自己完結した世界に修復できない亀裂を入れられたということなのかと思う。

 

 

生きものは、安定を求めるけれど、安定とは静的な状態であり、いわば死だ。生はいつも安定という死を求め、安定にあるならそこにとどまろうとする。安定したら、もう変わらないでいて欲しい。たとえそれが少し長いスパンで見れば不安定を引き起こすことであっても。

 

いや、やはり安定への固執は不安、恐怖の強さのせいなのか。安定しても退屈になり、ムズムズする。それは、その安定ではぬりつぶせない亀裂が人の心の底にあるからだ。一方で塗り潰そうとし、もう一方では根源的な向き合いを求める。魔女ランダと神獣バロンの永遠の闘い。

 

自分もまた死んだように生きていると思う。本当は保持できない変わらなさを維持しようとするのか、それとも踏み込み、出会い、自らの中にできたシステムを破綻させていくのか。西川さんのように、結局は、後者の方が割りがあうと思い出すものなのか。多分、そうなのだろう。