降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

センテンスのライブに

センテンスのライブのお誘いをうけてネガポジに。

センテンスは二人のユニットで、僕と同じ畑で野菜をつくっている。

 

センテンスのブログ


最初の曲の歌詞でありきたりのダンスでいく、みたいなのがあっていいなと思った。メロディが面白いところがあって、ああいう感じの自分もつくってみたいなあと思った。舞台の上でも畑であうお二人の感じもあり、通算40回ぐらいライブされたとのことだけれど、とても初々しい感じもした。

 

今回は緊張がありながらも「抽象的な意味でも歌えるようになった」とのことで、一つ違った段階にいけた実感があったそうだ。センテンスのライブが3回目だという同席の方は、今までと全然違ったよと言っていた。

 

センテンスも、前後の方も、旅というテーマが入った歌があった。旅とは何だろうか。森の案内人の三浦豊くんが「僕は森はメタファーだと思っている」と言っていたのがとても腑に落ちるところがあり、畑はメタファーだとか、他のところにもあてはめてみてたりしていたけれど、旅についても、旅というものが実際にあるわけではなく、旅はメタファーだなと思った。何も持っていなくて、通り過ぎていく、そのなかで色々なものに出会うというような要素をまとめて旅なのだろうか、などと思いつつ。

 

音楽の話し、舞台に出ることの話しとか、自営業の話しとか色々お話し聞かせてもらった。舞台上で、音とか自分のあり方とか、そういうごまかしのきかない場に自分が出れるだろうかと思う。あと必ずしも自分の思いとそぐわない経済の理屈と、そこへの小さな、しかし思いをこめた反逆の話しも迫ってくるものがあった。

 

音楽のことを全然わかっていないけれども、歌というのは実はどれもレクイエムなんじゃないかなと思ったりしている。「歌えた」今日は、晴れ晴れとしてなお一層そうだったんじゃないかなとか。

 

生きるということを長い時間をかけて絵が完成していくようにイメージする見方もある。割りとそういうイメージをよく聞く。でも、自分はそうじゃないのではないかと思って、別の見方を探していた。

 

長い時間を生きられない人もいるし、「うまくいった」人だけを選んで、それを全体に一般化するのはおかしいんじゃないか。持つものと持たざるものがあり、生きている間に社会で報われることは保証されていない。その上さらに絵が完成することが生の一般的な価値であるかのように述べる言説は全くいただけない。

 

最近は、生きる時間の短い長いでなく、ネガティブであれ、ポジティブであれ、受け取ったものを凝縮して世界に伝えた反応を得るということができれば、心は満足するようじゃないかと思うようになってきた。藤田和日郎の「うしおととら」でいえば、能力が高すぎて誰とも全力でぶつかることができなかった(つまり世界に自分として受け止められることのなかった)ナガレが、最後にうしおを裏切り、闘いを挑んで死んでいくとき、それまで彼の心の穴にいつも吹き抜けていた風が止んだように。

 

自分が関われるある一点に凝縮し、賭けるということは、持たざるもの、「不遇」なものにもできることだ。全てを思い通りにする必要も必然もない。「幸せ」だろうと「不幸せ」だろうと、心ゆくことはできる。持っている時間の短いや長いさえこえることができる。それはそれまでの全てに対するとむらいのように行われる。

 

ネガポジは話しているとスタッフがお菓子をちょっと差し入れてくれたりするとか、出演者がもっていったハーブをメニューにいれてふるまうとか、あたたかい空間だった。
とむらいによって生まれたものは、個人のなかにとどまるものではなくて、放電されるように周りに伝わっていくと思う。深いとむらいは、誰もがもつ報われぬ思いへの共感でもあり、沈殿し残っているものを取り去っていく。