降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ギブアンドテイクが破綻するところ

経済的な効率性や合理性に回収されないものがある。必ずしも肯定的な現ればかりするものでなく、犯罪のような破滅的方向にも向かう。この力は世間一般的なギブアンドテイクに手なづけられない。そんなものではもはや割りが合わないのだ。
 
 
逆に言うならば、ギブアンドテイクによっては生きることはあがなわれない。世間に従うことによって世間が提示する「幸せ」や「保証」を得るのでは割りにあわなくなった人たちは、その向き合いを生きざるを得ない。
 
 
多くの人が向き合いたくないことは抑圧される。その抑圧は無自覚に、自然と少数者に割りを食わせる。多くのために犠牲になれと多くに属する自分のために言って押しつける。
 
 
駅のエレベーターは、国や鉄道会社が善意からつけたのではなく、障害のある人たちの運動によってできたと聞く。少し前は障害者が出歩くこと自体がわがままとされて白眼視されていた。
 
 
今では駅で健常者が普通にエレベーターを使う。誰かが代わりにやってくれたことの利便性を享受しながら、時には障害者が車椅子でエレベーターを利用するのは、あまり人が乗れなくなるから迷惑だと言わんばかりの目で見る。
 
 
フリーライダーであることを知らず、あるいは開きなおって抑圧に加担する。ごく自然に。
 
 
既に出来上がっているものとは、誰かにとって都合のいいものであり、その誰が1人であれ多数であれ、力を持っているからこそ維持される。そこにある根本的な欺瞞を明らかにしたり、変えようとすることは、力を持つもの、そこに乗っかっている者にとっては、わずらわしく、認めたくないもの。
 
 
少数者の告発は、それが妥当かどうかという議論や意識化に発展する前に、取るに足らぬ愚論、おかしな話しとして退けられる。自我の自動的な防衛機能は「逸らす」ことにあり、まともに考えるものとしてそもそも意識にのぼらせようとしない。
 
 
少数者が自分が生きるためにやらざるを得ないことは、必然的に多数者の欺瞞を明らかにすることとつながる。悪意すらない無自覚な無視と開きなおった抑圧に少数者は人間として反逆する。
 
 
その反逆によってもたらされた利益は、エレベーターのように、また力を持った多数者に当然のように持っていかれるのだけど。
 
 
反逆の代償は、特許のように固定化できない。ギブアンドテイクにならない。世間的にはやり損なのだ。それによって弔われるのは自らのうちと、同じ抑圧に泣いていたものの心のうちだけだ。だけれど、何かをもらう引き換えのためにやっていたのではない。自身として生きるために贈り続ける。